このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2012年

桂浜〜坂本龍馬〜
indexにもどる

高知県高知市浦戸の桂浜に行ってみた。


坂本龍馬彰薫碑


 この碑は幕末に 坂本龍馬 と親交のあった土方久元の龍馬をともらう七言絶句の詩を彫記したものであり、「東走西奔身を顧みず、長山薩海往来頻りなり、奇勲未だ奏せざるに奇禍に罹う、遺恨千秋鬼神を泣かしむ(原漢文)」とある。下方には自由民権運動の最高指導者であった板垣退助の撰文がある。この碑は大正4年(1915年)に建てたもの。「忠魂護皇基の碑」には、細川潤次郎の「とこしえに国守るらんなき魂の皇后の宮のゆめに誓ひて」という和歌が刻記されている。

小高い丘の上に坂本龍馬像があった。


昭和3年(1928年)5月27日、除幕式。製作者は本山白雲。

坂本龍馬先生銅像建設由来記

 海の男としてたくましく生きた坂本龍馬先生の永遠の姿をわれわれはこの銅像に見る。海援隊を創設し、薩長同盟を成立させて土佐藩を倒幕派陣営に誘い、将軍の政権奉還による王政復古を見るまで33年の生涯は凶刃のために血潮に染められたが、先生の起案した船中八策は新日本建設の柱として残された。その立憲会議制の提唱は明治の自由民権運動として展開され、日本近代化への道を大きく切り開いたのである。先生の夢は後代の青年の魂をゆさぶり続け、大正の末年本県青年たちの提唱によって、銅像建設のことも立案推進された。この桂浜の厳頭に建てられた先生銅像の除幕式は昭和3年5月27日を期して挙行された。建設資金は当時の青年たちの零細な拠出によって造成されたが、この計画は先生の往時の同志、田中光顕伯の賛助を受け当時25歳の青年秩父宮から寄付金が下賜されたのである。このことが一層県下青年を感奮させたと伝えられる。総工費2万5千円、像身5.3メートル、台座8メートル、製作者は郷土出身の本山白雲である。除幕式の当時は軍艦「浜風」が銅像の下に投錨参列して祝意を表した。青年の力によって建設されたこの銅像は青年のシンボルとして雨の日も風の日も若者たちの魂に力強く話しかけるであろう。

 建設以来55年を経、損傷の著しい銅像台座の修復工事を行うべく立ち上がった現代の高知県青年は昭和58年3月20日、桂浜で盛大に竣工式を祝った。修復資金は一口100円の寄付を街頭募金を通じて県内外の龍馬ファンから募り、目標額を上回る573万4195円の寄付金を集めた。明治の青年たちが建設した、その意志を受けついで昭和の青年たちの手で修復しよみがえった坂本龍馬先生の銅像。

 「いつまでも伝えたい、龍馬の心を生き方を」の合言葉とともに次代の青年たちにこの意志が受けつがれんことを期待する。

 さらに、建立以来桂浜で風雨に耐えること70年。古希を迎えたのを機に、「龍馬も日本も倒しとうない」と、有志たちが龍馬像修復実行委員会を結成。建立時と同様、龍馬を愛する人々から大きな浄財を得た。(総額5,941万4,590円)。そして、平成11年3月28日、修復・強化された龍馬像は再び太平洋を望んだ。「ありがとう。次は日本の洗濯ぜよ。」とその姿は語っているかのようである。終

昭和30年(1955年)12月、 山口誓子 は坂本龍馬の銅像を見ている。

冬凪ぎて龍馬着袴の後姿

何を手握(たにぎ)る銅像も懐手

『構橋』

坂本龍馬の横顔

 坂本龍馬は高知の城下町に住む郷士の次男として生まれ(1835年)、青年時代江戸に出、千葉道場で北辰一刀流を学び、剣士として知られているが、文久元年(1861年)、いちはやく武市半平太(瑞山)の土佐勤王党に参加した。

 後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し、また、長州(山口県)の桂小五郎(木戸孝允)、薩摩(鹿児島)の西郷隆盛を説いて、慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させ、長州に押し寄せた幕府軍(徳川方)を撃破した。これを機会に討幕運動が高まったが、龍馬はこの薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古を考え、土佐藩の参政後藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を 基とする新政府の出現を期した。山内容堂(15代藩主)は、後藤の提案を受け入れて慶応3年(1867年)10月3日将軍慶喜に大政奉還を建白した。

 将軍も時勢を察し、10月14日に政権返上を朝廷に上奏した。龍馬はこれを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町近江屋で幕府方の刺客に襲われ、同志中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。龍馬は海援隊長。慎太郎は、陸援隊長として土佐藩の遊軍を作り、その活躍が期待されたが、幕末の新旧勢力対立の犠牲となった。時に、龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。

豪気節の歌碑


この浜よする大涛は、カリフォルニヤの岸を打つ

吉井勇歌碑


 吉井勇は歌集『人間経』の詞書に「昭和6年5月、われはじめて土佐の国に遊びぬ、海は荒かりしかども空あかるく、風光の美そぞろにわが心を惹くものありき」と記している。碑の歌はこの旅を詠んだ「土佐百首」の一つ。

 吉井勇(1886〜1960)は歌人、劇作家。東京生まれ。祖父は薩摩藩士・伯爵。勇は初期の歌集『酒ほがひ』『東京紅燈集』などで青春の哀歓を歌い、独特な頽唐歌風を樹立したが、後年、「流離のおもひに骨も痩せける」旅を繰り返すようになり、歌声もまた変わった。昭和8年、勇は思い屈して妻と離別し、爵位も返した。翌年、流人のように土佐に入った勇は猪野々(香北町)に廬(渓鬼荘)を結んで隠棲した。『人間経』や『天彦』の侘び住みの歌には落莫たる孤愁が漂っている。昭和12年、勇は孝子夫人を迎えて高知市に移り、翌年京都へ去った。吉井勇にとって土佐は酒の国でもあったが、更生の地でもあった。

桂浜


桂月先生記念碑


大町桂月記念碑

 大町桂月(1869〜1925)は高知県出身の文人。名は芳衛。雅号桂月は月の名所桂浜に因み、桂浜月下漁郎を縮めたもの、明治29年東大国文科卒在学中から能文をもって知られ、その文業は美文・韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩、著書200余冊。漢文を骨格に和文の衣裳で練り上げられたその文章は平明自由、一世を風靡した。終世酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。仙味を帯びた瓢逸酒脱の人格はその文章に色濃く映写されている。小説以外の分野で桂月の文章ほど広くかつ長く愛読されたものはない。

 この碑の側面に刻まれた「見よや見よみな月のみのかつら浜海のおもよりいづる月かげ」の歌は、大正7年、38年ぶりに故郷の土を踏んだ桂月が、愛弟子の田中桃葉とこの桂浜に遊んだ折の作である。

竜王岬の海津見神社


室戸岬が見える。

「私の旅日記」2012年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください