このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2012年

土佐勤王党〜「三志士像」〜
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JR土讃線高知駅南口の「こうち旅広場」に「三志士像」がある。


「三志士像」


武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎

2011年7月9日、土佐勤王党結成150年に設置。

武市半平太・中岡慎太郎は、よく知らない。土佐勤王党も知らない。

土佐勤王党

 土佐勤王党が結成されたのは文久元年(1861年)8月であった。黒船来航以来外国の圧力は激しく、尊王攘夷の動きも激化していた。武市半平太はこの時勢に応ずるには、土佐藩を「一藩勤王」にまとめ、薩長と連携協力して朝廷の権威を確立し、幕府を圧倒する政治運動の展開以外にないと同志の集結を決意した。盟文は大石弥太郎が作成し、半平太自らが盟主となり旧知の同志に呼びかけ192人が血盟した。多くは郷士層を中心とする下級武士や庄屋出身であった。天保期の庄屋同盟など横のつながりや尊王思想の浸透が背景にあった。

坂本龍馬先生像


坂本龍馬 もよく知らないのである。

●武市半平太(1829〜1865)

 上士と下士の中間である白札格の家に生まれる。号は瑞山。

 文武両道に秀で、文久元年(1861年)8月に土佐勤王党を組織し、盟主となった。尊王攘夷を主張し、対立する吉田東洋を暗殺した後、一時藩政を牛耳る。

 8月18日の政変後、勤王党の弾圧が始まり、投獄後切腹を命じられた。享年37。

●坂本龍馬(1835〜1867)

 高知城に近い本丁筋(現高知市上町一丁目)で郷士の次男として生まれた。

 19歳の時、江戸で黒船騒動を目の当たりにしたことが転機となり、28歳で脱藩した。

 討幕を目指し、薩長同盟を成功させ、平和討幕を盛り込んだ船中八策を起草し、大政奉還へと導くなど土佐藩を歴史の表舞台にたたせ近代国家実現を目指した。

 大政奉還の1ヶ月後、京都で暗殺された。享年33。

●中岡慎太郎(1838〜1865)

 安芸郡北川郷大庄屋中岡小傳次の長男として北川郷柏木に誕生。20歳の時に病気の父に代わり、大庄屋見習いとして村政に携わり、飢饉にあえぐ村民救済に努力する。文久元年(1861年)土佐勤王党に加わるが、文久3年9月に脱藩。

 その後、薩長連合、三条実美と岩倉具視の和親、陸援隊結成など、近代国家建設に奔走する。

 慶応3年11月15日、京都近江屋にて坂本龍馬と面談中、刺客に襲われ重傷を負い、2日後に死去。享年30。

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