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私の旅日記

人吉城跡〜「故郷の廃家」の歌碑〜
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人吉まで足を延ばしてみた。

史跡 人吉城跡


 人吉城跡は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198年)に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城とも言います。

 人吉城が史料に初めて出るのは、大永4年(1524年)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった山城で、素掘りの空堀や堀切によって守られていた城でした。

 室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年(1587年)の 豊臣秀吉 の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明泊4年(1871年)の廃藩置県まで存続しました。

 人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正17年(1589年)からで、何度か中断をしながらも、51年後の寛永16年(1639年)に現在見られる石垣が完成しています。

 球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸には天守閣は建てられずに2階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。

 水の手門近くの『武者返し』と呼ばれる石垣は、幕末に導入された欧州の築城技術である槹出(はねだし)工法で築かれたものとして有名です。

 城内の建造物は、廃藩置県の後に取りこわされて残っていませんが、保存の良い石垣が人吉城の姿を今に伝えています。

人吉市教育委員会

武者返し


 御館北辺の石垣上には、絵図にみえる長櫓があり、文久2年(1862年)の寅助(とらすけ)火事で焼失した。翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、その上端に槹出工法による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。

 この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年(1853年)に品川台場(東京)で初めて導入され、五稜郭(北海道)や龍岡城(長野)等の西洋式城郭で採用されており、旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。

人吉市教育委員会

堀合門(復元建造物)


 堀合門は城主が住む御館の北側にあった裏門で、文久2年(1862年)の「寅助火事」でも焼失をのがれました。明治4年(1871年)の廃藩置県後は城外の士族である新宮家(土手町)に移築され、人吉城唯一の現存する建造物として、市の有形文化財に指定されています。形式的には棟門(むねもん)と呼ばれるもので、化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の優美な曲線が特徴的です。

 門跡の発掘調査では、門柱を建てた2つの礎石跡とその両側にあった排水溝が確認された。 この門は、旧位置での発掘結果や移築され現存する門、絵図に描かれた姿に基づいて、平成19年度に塀や排水溝と共に復元したものです。

人吉市教育委員会

大村米御蔵跡・欠米蔵跡


 人吉藩では藩内12カ所に米蔵を置き、このうちの間(村)蔵と大村蔵は、それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟ずつあった。大村米御蔵(西側礎石群)には隣接して欠米御蔵(東側礎石群)があった。両方とも瓦葺で4間×10間の長大な建物であった。発掘調査で「御用米」「免田納米」「上村納米」と墨書した木札が出土している。右手の門は堀合門である。

人吉市教育委員会

「故郷の廃家」の歌碑


幾年古里來てみれバ 咲く花啼く鳥そよぐ風
門辺の小川のさゝやきも なれにし昔に変らねど
荒れたる我家に 住む人絶えてなく

「故郷の廃家」は知っていたが、作詞・作曲は知らなかった。

犬童球渓(いんどうきゅうけい)

 本名を犬童信蔵(のぶぞう)という。明治12年(1879年)3月20日、人吉市西間下町で出生。昭和18年(1943年)10月19日、同所で逝去。

 生涯の大半は教職にあり、最後は地元の旧制人吉高等女学校で指導にあたった。

 人吉が生んだ偉大な音楽家で、作詞・作曲は360余作品にのぼる。なかでも「故郷の廃家」、「旅愁」は、広く知られている。この2曲は、旧制新潟高等女学校在職中に、ふるさと人吉をしのんで作詞されたものと思われる。

御下門跡(おしたもんあと)


 御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門である。大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)、桁行10間(20m)の櫓をわたし、その中央下方の3間分を門としていた。門を入った奥には、出入り監視のための門番所がありました。櫓をわたし、その中央下方を門としていた。門を入った奥には出入り監視のための門番所があった。

人吉市教育委員会

二の丸へ。


二の丸跡


 戦国時代までの人吉城は、東南の上原城を本城とする山城であり、この場所は「内城」と呼ばれる婦女子の生活する地区であった。天正17年(1589年)、第20代長毎(ながつね)によって近世城としての築城が始まると、本丸や二の丸の場所となり、慶長6年(1601年)には石垣が完成している。

 二の丸は、江戸時代の初め「本城(本丸)」と呼ばれているように、城主の住む御殿が建てられた人吉城の中心となる場所である。周囲の石垣上には瓦を張りつけた土塀が立ち、北東部の枡形には櫓門式の「中の御門」(2.5間×9.5間)があり、見張りのための番所が置かれた。また、北辺には御殿から三の丸へ下る「埋御門(うずみごもん」が土塀の下に作られ、この他に「十三間蔵」(2間×13間)や井戸があった。

 三の丸は二の丸の北・西部に広がる曲輪で、西方に於津賀社(おつがしゃ)と2棟の「塩蔵」(2.5間×6〜7間)を、東の「中の御門」近くに井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。その周囲には当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、「竹茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。これは、人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的もあった。

 二の丸御殿 享保4年(17194)の「高城二ノ丸御指図」によれば、御殿は北側を正面とするように配置され、「御広間」(4間×9間)・「御金ノ間」(6間四方)・「御次ノ間」(4間×6間)の接客・儀式用の表向建物と「奥方御居間」(3間×8間)・「御上台所」(3間×9間)・「下台所」(5間×8間)の奥向の建物の合計6棟からなる。これらの建物は、すべて板葺の建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、建物の間には中庭が作られている。この内、「御金ノ間」は襖などに金箔が張られていた書院造の建物で、城主が生活・接客する御殿の中心となる建物である。

人吉市教育委員会

本丸へ。


本丸跡


 本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天主閣は建てられず、寛永3年(1626年)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。礎石群は、板葺きで4間四方の2階建ての護摩堂跡である。

 中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。

人吉市教育委員会

御館入口へ。


御館(みたち)入口


 御館は代々の城主の城主が居住していた所で、南を正面入口とする。前には溜池があり、多脚式の石橋を渡った所に本御門が建ち、その内側右手に門番所を置いて出入りの監視をしていた。

 石橋は、明和3年(1766年)に山田村の石材を切り出し、領内各村に割当して運搬させ建設されたが、各村民は作業割当日の翌日に交代で踊りを披露している。

人吉市教育委員会

日本100名城 の93番である。

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