このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

熊本城〜加藤神社〜
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通町筋駅から加藤神社まで歩いてみる。


平御櫓(ひらおんやぐら)


北十八間櫓


不開門(あかずのもん)手前の料金所。


本当に不開門(あかずのもん)になってしまった。

木陰から見る小天守


棒庵坂

 熊本城内には人名のついた坂が3つあるが、その1つがこの棒庵さかである。この坂の下に下津棒庵の屋敷があったことから命名された。棒庵は宗阿とも言い、もともとは京都の公家の出であるが、加藤清正の家臣となり、禄二千石を与えられていた。

 棒庵坂は北大手門へ入る要衝であったから、坂の途中に番所が置かれており、また坂の南側には石の欄干が設けられていた。明治以降は手入れも行届かずに荒廃し、大木鬱蒼として昼なお暗い物さびしい坂であったが、今日ではきれいに手入され、城内への歩行者通路となっている。

熊本市

加藤神社


御祭神 加藤清正公

陪神 大木兼能公・韓人金官公

由緒

加藤清正【永禄5年(1562年)6月24日〜慶長16年(1611年)6月24日】は、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の御出身で、戦国時代の智仁勇の三徳を兼備された模範的武将として、また、熊本に於ては、日本三名城の一つである熊本城の築城と、それにはじまるところの富国安民の国づくり政策を推し進められた方であります。

それは、全県下に亘る土木・治水工事をはじめ、干拓、開墾、植林、交通の便の為の街道づくり、焼物等幾多の国の発展の礎となる産業の奨励保護等民草の為の治政をなされ、また、学問の奨励、文化の開拓等と一つ一つ列挙すれば限りない程の偉業を残された領主であられます。

それに武将としての清正公は、単なる勇しいばかりの武士でなくして、常に大義名分を重んじられると共に、上には忠と義を以って、下には慈悲と情を以ってあたられた方であります。この様に27歳で肥後国に入国され50歳で逝去なされた、清正公50年の人生は、実に至誠にして高潔なる人格者であり、いつの時代に於ても尊崇敬慕されるにふさわしい理想的日本人であられ、熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる有形無形の役割を果された大恩人で、清正公をお祀り申し上げる加藤神社は、肥後総鎮護と言うべき神社であります。

加藤神社から見る天守閣


加藤神社から見る宇土魯


戌亥櫓


二の丸から見た戌亥櫓


未申櫓


飯田丸五階櫓


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