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今年の旅日記
菊池公園
〜御所通り〜
菊池温泉
『
木立の中の宿
清流荘』
から菊池公園へ。
菊池公園に菊池武光公像があった。
平成4年(1992年)3月、建立。制作、日本芸術院会員中村晋也。
菊池氏はもと藤原氏の出、1070年藤原鎌足十五世裔則隆この地を管領し菊池の姓を立つ。爾来二十四代462年連綿として王事に励み、清廉にして信義に篤く、邪に組せず断じて変節しない一族の士風は、そのまゝ凝って菊池人士の精神文化を創造した。世にこれを菊池精神と言う。
中でも十五代菊池武光は南北朝の乱れに際し、誓って南朝の正統を信じ、1359年後醍醐天皇の王子懐良親王を奉じ、宮方4万の菊池勢をもって6万の武家方軍勢を筑後川大原野に撃破、以後菊池の地は十数年余九州の政治文化の中枢となる。
幕末の詩人頼山陽はその漢詩に叙す。「七道望風助豺狼 勤皇諸将前後歿 西陲僅存臣武光」と。爾来六百有余年星霜移り人替わるとも稀代の名将菊池武光公、今ここにその勇姿を再現して建つ。
御所通りを歩いてみる。
高木医院
高木医院は、高木公久氏を施主として建てられた医院建物で、棟木の墨書により昭和6年棟上げ、大工棟梁は赤星の松本仁一であることが分かっています。
外観的には採光、通風のため「ドーマー窓」や柱部材を見せる「ハーフティンバー」風のつくりが最も特徴的な点ですが、その一方で内観的には格式ある和風建築の特徴である格子天井が用いられ、また医院として採光を確保するため窓を大きくとるなど、機能的な配慮もされています。
建築当初から玄関脇に立つサルとカエルの石像が今でも来院者を出迎え、また見送っています。
菊池市教育委員会
国登録有形文化財
(建造物)である。
旧松倉家住宅主屋
旧松倉家住宅主屋は、松倉萬次郎氏の邸宅として建てられた町家建築で、棟木の墨書や当時の設計図により昭和7年棟上げ、大工棟梁は中島軍次郎であることが分かっています。
仕出し屋を営んでいた萬次郎氏の邸宅として建てられた建物ですが、客をもてなすことを意識したつくりを1階の欄間飾りや2階の透かし欄間、名木を用いた床の間や付け書院など随所に見ることができます。
現在はまちづくり団体等の活動拠点として、また企画展示の場として活用されています。
菊池市教育委員会
国登録有形文化財
(建造物)である。
菊池高等学校の手前に「将軍木」があった。
熊本県指定天然記念物
将軍木
根回り約10m、幹囲約8.0m、枝張りは東西に24mに達する椋の巨木。樹高は16mとさほど高くはないが、樹齢は600年以上と推定される。そのため、北側は幹が腐朽して大空洞をなしている。主幹部分には裂けるのを防ぐために2個の鉄環を巻き、南方に繁る枝は鉄の支柱で補強してある。
この木は、南北朝時代、征西将軍宮懐良
(かねなが)
親王が、当時勢力のあった菊池氏を頼り、この地に征西府を置かれたとき、宮の杖から芽をふいたとも、御手植の木とも伝えられる。将軍木の名も、この懐良親王にちなんでつけられたものである。
今でも、菊池神社の御神木として地元の人々に親しまれており、10月13日の秋祭りのときには、隣接する能舞台において、この木を将軍宮の象徴に見立てて、国選択無形民俗文化財松囃子能が奉納されている。
(平成10年12月、国重要無形民俗文化財に指定)
熊本県教育委員会
「わいふ一番館」に高木元右衛門の銅像があった。
討ち入り朝 辞世の歌
太刀刀ぬきはなちたる今日よりは治る御代の始とそしれ
平成22年(2010年)11月、御所通り景観形成協議会建立。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に、剣豪として、又、笛の名手として登場するそうだ。
高木元右衛門(直久、1833〜1864)
高木家の祖先は近江高城の出で、永生年間(1504〜20)菊池氏に仕え、滅亡後は菊池郡深川村(現・菊池市深川)に住んだ。代々軍陣笛方の家柄で、
加藤清正
・忠広父子に仕えた「笛一道」の笛師であった。
高木元右衛門は天保4年(1833年)、父甚之助の次男に生れた。笛方の家業を継ぎ、兄治三兵衛の剣術道場で、剣術・柔術・居合術・槍術を修得した。
元右衛門の門人も380余人を数えた。特に剣術・槍術では、藩内外の他流試合で勇名を馳せた。一時期、玉名郡荒尾村の宮崎家養子となった。
元右衛門は、尊王攘夷の志厚かった。元治元年(1864年)6月、京都池田屋で長州・土佐・肥後藩の尊攘派らと会合中、新鮮組の近藤勇・沖田総司らの襲撃を受けた。肥後藩の宮部鼎蔵は自刃、松田重助は斬殺された。元右衛門は近藤勇に脇差と短刀で応戦、包囲を脱出した。
翌7月、長州藩兵の先峰として、会津・薩摩藩兵の警護する「禁門」(蛤御門)に、両刀振りかざして切り込んだ。会津藩兵の銃弾は、股と隔(胸と腹の間)を貫通、その勇猛さと壮絶な死姿に首級を挙げなかったという。享年32歳。
墓は深川共同墓地に北隣り高木家墓所内にある。また京都東山霊山神社境内には、長州藩殉死者の墓標群の中央に「肥後 高木元右衛門源直久墓」が建っている。
文学博士 堤 克彦 謹書
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