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私の旅日記
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2015年
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生目神社
〜芭蕉の句碑〜
宮崎市大字生目に生目神社がある。
日本一社 生目神社御由緒
一.御祭神
(主祭神) 品陀和気命(応神天皇) 藤原景清公
(御相殿) 彦火瓊々杵尊 彦火々出見尊 鵜茅葺不合尊
一.御由緒
本神社は古来、生目八幡宮(活目とも書く)と称えていましたが、明治維新に至り、生目神社と改称せられた。(旧県社)
◎(御霊験のこと)昔より眼疾に霊験あらたかなりとして崇敬殊に厚く、「日向の生目八幡様」として、広く知られ、九州はもとより、北は北海道、本州から直参
(じきさん)
祈願される参詣者も多い。
◎(御創建のこと) 本神社の創建に関しては、元亀、天の兵火で古書、棟札等が焼失し尽くし詳ではないが、「宇佐大鑑」には天喜4年(1056年)に既に之の八幡社が建立されてあったと記され、尚僅かに遺された棟札によっても、宝徳2年(1446年)5月に既に遷宮祭が行われた事が知られる。下って弘治2年(1556年)には既に多くの社領神田を有していた旨の旧記あり。
これらの事実は本社が実に貴きお方々を御祭神として奉祀している所以で古くから世の崇敬厚かったことを物語っている。
(いくめの起源)
種々の説があり何れを真ともなしえないが
一説には景清公、日向下向に際し居を此地に撰び閑居され生を卒えられた。公の歿後、公の活けるが如き霊眼を斎き祀ったと。
一説には当地に古より霊地として眼疾患者を活かすに不思議に著しき霊験あり古人其神徳を奉り生目(活目)八幡宮と称え奉ったと。
一説には活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)を奉斎した社であると。
蓋し、御子景行天皇熊襲征伐の途、御父君垂仁天皇の御命日に偶々之の地にて神霊祭を御営みになられたのを住民等歓迎し聖地として永く奉斎し活目八幡宮と称え奉ったと。
一.御神詠
元禄2年(1689年)3月3日、豊後国日田の郡代池田季隆来拝し「かげ清く照らす生目の鏡山、末の世までも雲らざりけり」と和歌を献詠された。
その後御神託により「鏡山」を「水鏡」と改め、御神詠となした。
「かげ清く照らす生目の水鏡、末の世までも雲らざりけり」
生目神社
本殿の左側に市指定天然記念物生目神社のオガタマノキ、右側に市指定天然記念物生目神社のクスノキがある。
クスノキの下に芭蕉の句碑があった。
此あたり目に見ゆるもの皆涼し
出典は
『風俗文選』
。
『笈日記』
には「
見ゆるものは
」とある。
貞亨5年(1688年)6月8日、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に詠まれた句。
明治2年(1869年)盛夏、建立。
昭和5年(1930年)9月28日、
種田山頭火
は生目社へ参詣している。
九月廿八日 曇后晴、生目社へ。
お昼すぎまで大淀——大淀川を東に渡つたところの市街地——を行乞してから、誰もが詣る生目様へ私も詣つた、小つぽけな県社に過ぎないけれど、伝説の魅力が各地から多くの眼病患者を惹きつけてゐる、私には境内にある大楠大銀杏がうれしかつた、つくつくぼうしが忙しくないてゐたのが耳に残つてゐる、帰途は近道を教へられて高松橋(渡し銭三銭)を渡り、景清公御廟所といふのへ参詣する、
『行乞記』(一)
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