このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

えびの高原〜与謝野寛と晶子の歌碑〜
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国民宿舎「えびの高原荘」で「宮崎牛陶板焼き」を食べる。

「えびの高原荘」から見る韓国岳。


霧嶋のからくに岳の麓にてわがしたしめる夏の夜の月

『霧嶋のうた』其二(与謝野晶子)

韓国岳は霧島連山の最高峰。標高1,701m。

えびの高原から県道30号えびの高原小田線を下ると、白鳥温泉下湯がある。

白鳥温泉下湯に与謝野寛(鉄幹)と晶子の歌碑が並んでいた。

左に与謝野寛の歌碑。


きりしまのしら鳥の山青空を木間に置きてしづくするかな

右に与謝野晶子の歌碑。


霧嶋の白鳥の山しら雲をつばさとすれど地を捨てぬかな

平成6年(1994年)3月、えびの市建立。

与謝野寛(鉄幹)晶子歌碑

与謝野寛(鉄幹)晶子 夫妻は明治大正から昭和初期にかけて歌壇で活躍。新詩社を主宰して数々のすぐれた作品を発表し、ロマン主義の新風を投じた。これらの歌は、昭和4年7月に2人でえびの高原を訪れた折に詠まれた。歌集「霧嶋のうた」に収められている。

きりしまのしら鳥の山青空を木間に置きてしづくするかな

みづからを憎むが如く打たしむる霧嶋の湯の瀧の下(もと)かな

廿五日、高千穂小學校長田中莊君の嚮導を得て高千穂の峰に登る。峰に到つて雲多し。同行は石塚月亭君父子なり。此日晶子は大浪湖に遊べり。

熱き湯を榮之尾(えのを)の溪に朝浴びぬ高千穂に行く清まりのため

『霧嶋のうた』其一(与謝野寛)

霧嶋の白鳥の山しら雲をつばさとすれど地を捨てぬかな

えび野湯に人たどる路見えずして廣く硫黄の黄のつづき原

坂東の殺生石を見し山におもむきの似る原にこしかな

『霧嶋のうた』其二(与謝野晶子)

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