このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
西坂公園
〜日本二十六聖人殉教地〜
長崎市西坂町の高台に西坂公園がある。
日本二十六聖人殉教記念碑
昭和37年(1962年)6月10日、列聖100年祭を記念して建立。
県指定史跡
日本二十六聖人殉教地
慶長元年12月19日(1597年2月5日)に6人の外国人と20人の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大阪・京都で捕えられ長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑された。
この26名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、文久2年(1862年)ローマ教皇は、盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し、「日本二十六聖人」と称せられた。
長崎市教育委員会
大浦天主堂は、その正式名称「日本二十六聖人殉教者聖堂」が示す通り、日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である西坂の丘に向けて建てられたと言われています。
昭和40年(1965年)11月16日、
水原秋桜子
は九州の旅に出る。
あらたに成りし二十六聖人
殉教の碑 三句
残菊や昇天の霊二十六
天国
(ぱらいそ)
の夕日を見ずや地は枯れても
霜に明け殉教の像はみな濡れぬ
『殉教』
西坂公園に水原秋桜子 と下村ひろしの師弟句碑があった。
天国
(ぱらいそ)
の夕日を見ずや地は枯れても
水原秋桜子
たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる
下村ひろし
昭和60年(1985年)11月、棕梠俳句会建立。
下村ひろしは長崎県出身の俳人。産婦人科医。本名宏。
昭和3年(1928年)、長崎医科大学卒。
昭和8年(1933年)、「馬酔木」に入会し
水原秋桜子
に師事。
昭和22年(1947年)、『棕梠』を創刊・主宰。
昭和51年(1976年)5月、水原秋桜子の句碑を建立。
昭和60年(1985年)12月、『棕梠』終刊。
昭和61年(1986年)4月21日、没。
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