このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

諫早公園〜眼鏡橋〜
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諫早市高城町の諫早公園に眼鏡橋があるというので、行ってみた。

眼鏡橋


 国指定重要文化財

眼鏡橋

 この眼鏡橋は、後方を流れている本明川の、ここから約400m下流(現在、歩行専用橋があります)に架かっていました。

 市の中心部を流れる本明川は古くから何度も大水害に襲われ、川に架けられた木の橋はその度に流されていました。このため昔の人たちは、飛び石(後方付近にあります)を利用して川を渡っていました。

 そこで、水害でも流されない橋を造ろうと、天保9年(1838年)に石の建設がはじまり、翌10年(1839年)に念願の眼鏡橋が完成した。

いさはやの眼鏡橋 いきもどりすれば おもしろかなり

と、数え歌にされるほど愛されていましたが、昭和32年の諫早大水害では橋の造りがあまりにも頑丈であったため激流でも壊れず、水の流れをせき止める堤防の形となって、死者行方不明者539名の大きな犠牲者を出す原因となり、ダイナマイトで壊す計画がありましたが、眼鏡橋を残したいという市民の願いによって、昭和33年に石橋としては全国で初めて 国の重要文化財 に指定されました。

 そして、昭和36年にこの諫早公園へ移され、いつまでも美しい姿を見ることができるようになりました。

諫早市教育委員会

「螢塚」があった。


水きよき本明川のほたるにも小さきいのちのありていとしも

吉井勇の歌碑である。

 吉井勇は明治・大正・昭和にわたり、幅広い分野で活躍した歌人、劇作家、小説。明治40年 「五足の靴」 旅で本県を訪れた後、何度も来崎し県内にはその歌碑も多く建立されているその歌碑も多く建立されているその歌碑も多く建立されているその歌碑も多く建立されている。

 諫早公園の眼鏡橋たもとにある大小2つ碑のうち、大きい自然石の碑には、「蛍塚」の文字の下に次の歌が刻まれている。

水きよき本明川の蛍にも小さきいのちありていとしも

 諫早市の本明川は蛍が舞う清流だったが、戦後急速に姿を消した蛍の霊を慰めその命を大切にしようと、市内の小中学生が発案し小遣いを出合って記念碑を作った。その際、歌を依頼された吉井勇が子ども達に贈ったのが前述の歌である。

 昭和29年5月の除幕式には吉井勇も参加した。

上山公園(諫早公園)都市公園100選

 この地は、かつて西郷家および諫早家の居城であったが、大正期に諫早家が町民に開放し、現在の公園となったものである。

 日本公園緑地協会と、緑の文明学会は、全国の公園の中でも造園文化の歴史性、整美管理等を総合評価し、全国都市公園の模範として、上山公園(諫早公園)を「都市公園100選」に選定した。

諫早市教育委員会

大手門

日本を代表する浪漫派の詩人

伊藤静雄詩碑案内

明治39年(1906年)諫早市にうまれる。

京都帝国大学文学部国文科卒業後、大阪で教鞭をとりながら詩集「わがひとに與ふる哀歌」を出版し萩原朔太郎の激賞を受ける。その後「夏花」「春のいそぎ」「反響」を上梓。日本を代表する浪漫派の詩人である。

昭和28年(1953年)、大阪にて逝去。

諫早市広福寺に眠る。

詩碑 階段上がる

諫早文化協会

階段を上がる


伊藤静雄詩碑


手にふるる野花は
それをつみ
花とみつからを
ささへつゝ
歩ミを運べ

昭和29年(1954年)11月、諫早文化協会建立。三好達治揮毫。

伊藤静雄詩碑

日本浪漫派の詩人として昭和初期詩壇に彗星の如く現れた伊藤静雄は明治39年12月この諫早に生れます。大村中学4年から佐賀高校文科に学び、昭和4年3月京都帝大学文学部国文科を出ました。以後大阪府立住吉中学校、後年阿倍野高校教諭の席に在って幾多珠玉の詩品を世におくり、昭和8年3月大阪において病没致しました。享年46才。その著「わがひとに与ふる哀歌」「春のいそぎ」「反響」「伊東静雄詩集」など、その清冷典雅なる詩の香氣な詩人の高潔孤絶なる芸術的人格と相俟って、ここに郷土有識者竝びに全国文化人の欣慕協賛するところとなり、碑の完成を見るに至りました。

諫早文化協会

高矢倉から見下ろす


諫早公園大楠


本丸(本曲輪)


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