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私の旅日記
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2011年
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相川郷土博物館
〜「はせを」の句碑〜
嘉永5年(1852)2月29日、吉田松陰は佐渡鉱山を訪れている。
金鑛は鶴子山を始めと爲し、文禄年時なり。今掘る所は則ち此れに異り、其の生ずる所は則ち金銀銅のみ、舊くは鉛鑛ありしも近年利薄きを以て廢す。鐡砂あれども陶鎔の術を知らざるを以て未だ起らず。三河を下れば金砂山あり。
『東北遊日記』
佐渡市相川坂下町に相川郷土博物館がある。
相川郷土博物館
「御料局佐渡支庁跡」である。
維新と共にわが国鉱業界のれい明を告ぐる設備の洋風近代化は、まず我が佐渡鉱山に於て典型的な、そして先駆的な急展開をみせた。即ち、此の建物は明治18年工部省官営当時並びに28年御料局佐渡支庁当時の貴重な洋風2階建建造物で、当時のおもかげを今に伝えて、興味深いものがある。
明治40年(1907年)11月11日、河東碧梧桐は佐渡鉱山に案内された。
午後鉱山を案内されて、搗鉱、泥鉱、砂鉱の三精錬を見た。目下の鉱石はだんだん質がわるくなって、いわゆる下鉱が大部分を占ておるそうな。金の含分が百万分の六、銀の含分が十万分の五六に過ぎぬ。それで搗鉱精錬で百万分の三をとり、泥鉱砂鉱精錬でその残りをとるようになっておる。泥鉱、砂鉱精錬は、新式の装置で、殆ど金銀分を余さぬように出来ておるけれども、到底収むべからざる千万分の一二は遺棄するの外はないそうな。他の上鉱は鎔鉱炉で精錬するそうであるが、今は月に四回位しか鎔鉱炉を用いぬという。徳川家時代の盛容は、今殆ど見ることは出来ぬと、土地の者宿の話。
『三千里』
昭和16年(1941年)4月25日、
斎藤茂吉
は佐渡鉱山を見ている。
相川の金鑛山のひびきをも眞近に聞きてのぼり來りぬ。
『霜』
相川郷土博物館に「はせを」の句碑があった。
唐土や可と荷五日の斗に梅
(もろこしやかとにいつかのたけにうめ)
出典は不明。
芭蕉塚
江戸時代、佐渡は俳諧が盛んであった。
俳聖芭蕉を慕う俳人によって芭蕉の句碑が建てられた。
相川には、桜塚・竹梅塚・扇塚の3基がある。
桜塚は1丁目裏町の永宮寺にあり、
うらやまし浮世の北の山桜
と、刻まれている。
竹梅塚は治助町にあると伝えられていたが南沢の長明寺の近くで見つかった。
扇塚の所在と句は不明である。
相川郷土博物館に「有田八郎記念館」があった。
明治17年(1884年)9月21日、有田八郎は新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野)の漢方医山本家に生まれる。
明治20年(1887年)2月23日、相川町の有田家の養子となる。
昭和13年(1938年)10月、第1次近衛改造内閣の外相となる。
昭和14年(1939年)1月、平沼内閣の外相。
昭和15年(1936年)1月、米内内閣の外相。
昭和40年(1965年)3月4日、没。
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