このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

備中松山城〜与謝野寛の歌碑〜
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国道180号線「川端町」交差点を右折して、城見橋公園駐車場へ。


 平日の通常時は城見橋公園駐車場からふいご峠駐車場まで車で行くことができる。

今日は混雑時だそうで、シャトルバスでふいご峠へ。

ふいご峠駐車場から徒歩約20分で天守へ。

大手門跡


 備中松山城は、自然の地形を巧みに利用して築かれているが、なかでも大手門はその典型。山麓から続く登城道に対し、大手門が東を向いて構えているので、侵入が矩(かね)折りとなり、内部は踏面(ふみづら)の長い石段と高い石垣で周りが囲まれ、半ば枡形構造(門の内側もしくは外側に、敵の直進を防ぐことを目的に設けた四角形の空間)となっている。城内へ押し寄せる軍勢等の勢力をそぐ為にとられた工夫で、備中松山城の大手門は実践向きに築かれている。

 攻撃あるいは防御に当たっての重要な軍事施設であると同時に、大手門は城下に威を奮う統治上の象徴的施設でもある。その為城内に6つある門のうち、最も複雑な進入形態をとるとともに、最大の規模を有している。

与謝野寛の歌碑があった。


松山の渓を埋むるあさ霧にわが立つ城の四方しろくなる

平成2年(1990年)3月、高梁市教育委員会建立。

昭和4年(1929年)秋、歌人 与謝野寛(鉄幹)晶子 御夫婦が松山城へ登山された時に詠まれた1首である。

五の平櫓


天守閣


備中松山城の沿革

 備中松山城は、延応2年(1240年)に有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に砦を築いたことに始まる。元弘年中(1331〜34)には、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康が大松山に入城。この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。その後も、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏と替わり、永禄4年(1561年)には安芸の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現高梁市成羽町)城主三村家親が尼子氏の加番吉田左京亮を討ち、備中松山城主となっている。

 元亀3年(1572年)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。天正2年(1574年)冬から翌3年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがえる。また居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓、現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかではない。

 関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は、慶長10年(1606年)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常に嗣子がなく廃絶、常陸下館から成羽を経て、寛永19年(1642年)、水谷勝隆が入城する。

 水谷氏は、勝隆、勝宗、勝美の3代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。さらに二代の勝宗は、天和元年(1681年)から3年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など全容が完成している。しかし、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易となっている。元禄6年(1693年)水谷氏断絶後、播州赤穂藩浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は1年近く在番として備中松山城にとどまっている。その後安藤重博・同信友次いで正徳元年(1711年)に石川総慶が城主となり、延享元年(1744年)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄が入城する。板倉氏はその後、勝武・勝従・勝政・勝おき・勝職・勝静・勝弼と7代続き廃藩置県を迎える。

二重魯


国指定重要文化財である。

備中松山藩の二代藩主信友は 其角 の門人。俳号は冠里。

 元禄11年(1698年)10月3日、備中松山藩の二代藩主となる。

 宝永2年(1705年)6月10日、初めて国入りする。

 宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納美濃加納藩の初代藩主に転封。

享保17年(1732年)7月25日、62歳で没。

備中松山城は 日本100名城 No.68である。

NHK大河ドラマ「真田丸」オープニング映像に備中松山城が登場!!

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