このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2011年

高松城跡〜清水宗治〜
indexにもどる

岡山市北区高松に高松城址公園がある。


高松城跡


国指定史跡 高松城跡 附水攻築堤跡

高松城とは・・

 高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582年)の中国役の主戦場となった城跡として有名である。

 城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが 窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。

 本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。

中国役とは・・

 全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。織田軍の先鋒 羽柴秀吉 は、天正10年に3万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。

 最後に攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間 (12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。

 本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。

 築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部残存している。

岡山市教育委員会

清水宗治の歌碑があった。


浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して

昭和57年(1982年)5月、清水宗治公四百年祭に建立。

高松城主清水宗治公が、主家毛利の安泰と部下5千の命を救うため、欣然として小舟に移り、敵将羽柴秀吉の贈った酒肴で主従最後の盃をかわし、誓願寺の曲を謡い、且つ舞い納め、この辞世の歌を詠じ、46才を一期として、従容として自刃すという。

 嘉永4年(1851年)3月14日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、雨で道がぬかるみ高松城の旧蹟が見られなかった。

一、十四日  雨。卯前、驛を發す。道猿懸古城の下を經、河邉驛に至りて竹笨車(ちくほんしや)に乘る。是の日雨甚だしく泥滑(でいこつ)にして、河邉川・高松城の舊蹟を察(み)る能はず、深く憾(うら)みと爲すのみ。


「私の旅日記」2011年 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください