このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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私の旅日記

大分県国見町〜山頭火句碑〜
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 国東市国見町赤根の県道31号山香国見線沿いに赤根温泉「湯の里渓泉」がある。

「湯の里渓泉」の玄関前に種田山頭火の句碑があった。


ぬれてしぐれのすすきわけのぼる

 平成15年(2003年)11月26日、国見の歴史と文化を高める会建立。青山桂翠書。

種田山頭火句碑

 自由律俳人 種田山頭火 は明治15年12月3日山口県佐波郡西佐波令村(現・防府市八王子)に生まれた。早稲田大学文学部を中退し、実家の酒造場を手伝い、結婚もするが、家業は失敗し妻とも別れて大正15年行乞流転の旅に出る。その後、山口県小郡町に「其中庵」山口市湯田「風来居」を結んだが、その間にも九州や中国地方をはじめ全国を放浪。昭和14年四国霊場巡拝を終え、愛媛県松山市に「一草庵」を結んだが、昭和15年10月11日同庵にて歿す。

 昭和4年11月筑紫三十三観音霊場巡りの途についた山頭火は、同月26日この地赤根の里に旅の足を休めた。この句は 宇佐神宮 、天念寺を経て両子寺への拝登途上、赤根に至る地蔵峠付近で詠んだものである。

国見の歴史と文化を高める会

坂を上ると、国見温泉「あかねの郷」がある。

「あかねの郷」の玄関前に種田山頭火の句碑があった。


いたゞきのしぐれにたゝずむ

種田山頭火句碑

 種田山頭火(明治15年〜昭和15年)自由律俳人。師の 荻原井泉水 の主宰する新傾向俳句『層雲』の同人(のちに撰者)として活躍。大正14年出家得度し、その後行乞流転の旅に出る。彼は、花鳥諷詠を提唱した季語や五七五を尊重する俳句とは異なり、「俳句といふものは…魂の詩だ、こころのあらはれを外にして俳句の本質はない」と言い、その人生や俳句においてもなにものにもとらわれない非定型を貫いた。行乞流転の旅にあって詠んだ数々の独特で風変わりなその俳句はいまも多くの人のこころを捉えている。

 昭和4年11月筑紫三十三観音霊場巡りの途についた山頭火は、同月26日この地赤根の里に旅の足を休めた。その日、師の荻原井泉水宛の書簡で「昨夜は山家に泊まりまして、ひとりしんみりしました、しぐれる岩山を四つ越えました、両子寺(ふたごじ)、天然寺、椿堂、どれも岩山の景勝を占めております…廿六日豊後赤根にて」と書き送っている。

県道652号赤根富来浦線に入ると、阿弥陀寺がある。

阿弥陀寺の門前に種田山頭火の句碑があった。


こんな山水でまいまいがまうてゐる

俳人・種田山頭火句碑

 一介の乞食僧となり母の位牌を胸に、泥酔と放浪に生きた異色の俳人・種田山頭火(明治15年〜昭和15年)は、その行乞流転の旅にあって、人々の心を捉える数々の俳句を残している。彼の俳句は、その特異な境涯とともに、季語や五七五の型に拘らない自由律俳句で貫かれている。彼は、解くすべもない惑いを背負って全国を彷徨い、自己の真実と心の安らぎを求めつゝ、大自然に畏敬し、一木一草を愛し、友を慕い続ける優しくも熱い心情に満ちていた。句碑にある句も、そんな思いが詠われている。

 昭和4年11月筑紫三十三観音霊場巡りの途についた山頭火は、同月26日赤根の里のここ阿弥陀寺に旅の足を休めたとの言い伝えもある。その日、中津の句友・松垣昧々宛の書簡で「ようしぐれますね、けふもしぐれて、ぬれて歩きつづけました、両子寺、天念寺、椿堂、地蔵峠を下るときには、もう暮れました」と書き送っている。この句はその日に詠まれたもので、句の“まいまい”はミズスマシのことであるが、暖かく歓待してくれた句友・昧々への思いをかさねていたのかもしれない。

 2006年3月31日、国見町は姫島村を除く東国東郡各町と合併し、国東市になった。

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