このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
松栄神社
〜不騫の句碑〜
府内城西の丸から廊下橋を渡ると、松栄神社がある。
廊下橋
松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭
(くるわ)
のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。
山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。
復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。
廊下橋の規模は、長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。
松栄神社
松栄神社沿革
当神社は慶長末期、上州(現在群馬県)水沼村に松平家(徳川家康生家)の祭神近正八幡宮として創祀され、戦国時代混乱治世の神、疫病災厄鎮護の神として国内に名声高く国民の信仰顕著なりしため、享保14年(1729年)豊後府内藩主直参の宮として城内山里の邸この土地に祭祀され、寛政11年神託により松栄山(現県護国神社社地)に遷宮、松栄神社と称されたがその後、日田広瀬久兵衛の助言もあり、藩財政の確立成り、幕府の信頼も厚く国内の信仰いよいよ広まり明治18年住民の信望に応え、市内堀川町奉行所跡地に新宮建立遷宮す。
更に明治33年現在地に復元し今日に至るが、その後幾多の災害や昭和20年の大戦災も奇跡的に免れ全市民の信仰益々厚く祭典も数日に渉り盛大に行われたが、終戦後世相の変遷により荒廃極に達したので、昭和43年全市民の協賛により明治百年記念改修が行われ面目を一新し、時恰も新産都進行の途上の市発展守護の神とし、市民のシンボルとなり、加えて疫病免除産業繁栄の神徳を祈る参拝者は日を追って増加しつつある。
府内藩記録資料より
昭和44年6月24日
荷揚校区全町代表総代 建之
社殿の左手奥に不騫の句碑があった。
山姫のもみぢのにしきそめわけて
みねよりおつる滝のしら糸
源昭重
朝霧は漿
(ごんず)
なるらん山さくら
太乙楼不騫
昭重は大給
(おぎゅう)
家二代の祖。近陣。
文政13年(1830年)、不騫の第二子近訓
(ちかくに)
が松栄山の大給家祖廟に建立。
明治18年(1885年)、松栄神社遷宮とともに移設。
帯曲輪に
北原白秋の歌碑
がある。
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