このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
岸和田城
〜皆吉爽雨の句碑〜
岸和田市岸城町に岸和田城があったので、立ち寄ってみた。
岸和田城の天守
岸和田合戦
天正12年(1584年)、小牧・長久手の合戦に出陣した秀吉の隙をついて、大坂をめざした根来寺勢力その数3万。一方岸和田城を守る兵は約5千騎。しかし城兵の奮戦によって城は守られました。
岸和田古城
現在の岸和田城から東へ500メートル離れた現野田町1丁目の「古城」と呼ばれてきた地に16世紀初め頃まで存続したと考えられます。
岸和田の天守
文禄4年(1595年)より始められた岸和田城の作事。慶長2年(1597年)に天守が上げられた旨が、「岸城古今記」に記されています。
天守の焼失
文政10年(1827年)11月20日暁七つ時(午前4時)、岸和田城天守に雷が落ち、天守をはじめ本丸の多聞櫓など多くの櫓が消失しました。
嘉永6年(1853年)3月23日、吉田松陰は江戸に行く途中、富田林から岸和田に至る。
二十三日 晴。十四日より今日に至るまで富田林に滯まる。又節齊に從ひ和泉の岸和田に至る。岸和田は戸數三千許り。
『癸丑遊歴日録』
藩ヲ廃シ縣ト爲ス
明治4年(1871年)7月、廃藩置県の布告を受け、岸和田藩は「岸和田県」となりました。
岸和田城二の丸に残っていた伏見櫓、藩主の居住した御殿も主を失い、順次、破却されました。
もう一度、城を見たい
焼失より126年(1953年)、町のシンボル不在だった本丸に、岸和田市民の力によって、天守が再建されることとなりました。
甦った岸和田の誇り
昭和29年(1954年)、約1年の歳月をかけ、数々の課題を乗り越えて、町のシンボルが再建されました。
二の丸公園に皆吉爽雨の句碑があった。
城山へかつ天守へと登高す
皆吉爽雨は本名大太郎。高浜虚子に師事。
明治35年(1902年)2月7日、福井県に生まれる。
昭和20年(1945年)2月、岸和田に疎開。
昭和21年(1946年)、『雪解』を創刊。
昭和42年(1967年)、第一回蛇笏賞受賞。
昭和43年(1968年)5月12日、岸和田雪解俳句会句碑建立。
昭和58年(1983年)6月29日、81歳で没。
河野繁子の歌碑もあった。
めぐりつつ登り来りし高殿の俯仰の視野に花あふれたり
河野繁子は和歌山県出身の歌人。
昭和26年(1951年)、岸和田に居住。
昭和30年(1955年)、夢殿短歌会を創設。
昭和55年(1980年)4月、夢殿短歌会歌碑建立。
岸和田城の城壁
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