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私の旅日記
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2008年
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氷川八幡神社
〜箕田碑〜
埼玉県鴻巣市箕田に氷川八幡神社がある。
氷川八幡神社
氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
八幡社は源仕
(つこう)
が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮祀したものであり、字八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社のために奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966年)に六孫王源経基が勧請したものだといわれる。
源経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子であり、天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれた。
氷川八幡神社に「箕田碑」があった。
箕田碑
鴻巣市指定金石文
箕田碑
昭和36年7月11日指定
箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。
源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778年)に刻まれた和文草体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたづねよ むさしのはら
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。
昭和62年3月
鴻巣市教育委員会
桃源庵文郷
は箕田村の人。
白井鳥酔
門の俳人。鳥酔没後、
加舎白雄
の門人となる。
裏の碑文
世を經てもわけこし草のゆかりあらは
あとをたつねよむさしのゝはら
萬壽二年の春、源綱行齡七十有三、命おはらんとせしとき、まくらにのこせし詠歌とそ、君位に背書して、則曹傳山寶持禪刹に安す、星霜つもりて七百餘歳、なをもわけこし草のゆかりあらはと、碑面に古蹟をあらわすものから
射貫の竹叢道のやとり、西北にあたりてわつか二三丁
國風のみそひともし、ゆきゝの人に何かつゝまんゆへに、翁の二句をそへて文武のほまれをはるかにしたふ
蝶の飛はかり埜中の日かけかな
芭蕉翁
蜷のすむ籔さへ見ゆるしみつかな
鳥醉翁
安永七年未春三月
桃源庵文郷建
しら雄坊書
芭蕉の句の出典は
『笈日記』
(支考編)。
貞亨2年(1685年)、『野ざらし紀行』の旅の途中、鳴海付近で詠まれた句。
貞享2年(1685年)、貝原益軒は箕田の八幡社のことを書いている。
此邊阿部豊後守殿領内、箕田村の中に八幡あり。是渡邊の綱が社也。綱は祖父より以來箕田に在し故、箕田の源次と號す。まいつな村人口、右方豊後守殿城忍へ行道有り。
『埼玉紀行』
安永10年(1781年)2月4日、平橋庵敲氷は八幡神社で箕田碑を見ている。
箕田のやはた のミやしろハ渡辺綱の産砂
(土)
近きころこのあたりなる人碑を立て其紀を刻めり
『岐蘇路記』
享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は箕田碑のことを書いている。
左のかたに諏訪の社あり。武州足立郡箕田村八幡と書る札たてり。又一の碑あり。
武蔵州足立郡箕田邑、田間有一小竹叢、名為射貫、相伝、昌平之際、源公経基為鎮在于此邑、公嘗帰依三宝、欲営無量寿堂、因ト其地、乃執弓跨馬、出于城外、北面発矢、験其所築而建焉、今観於此叢、縦横有画、蜜若束箭、
云云 文長ければ下略
宝暦九年己卯九月
前龍淵指月老衲
東都龍斎山維碩書
かたはらにむら竹の生ひたるをみるに、げにも箭竹のごとし。碑文の如くならば、六孫王の旧跡あ
(な)
りと思ひて、一枝おりて家産
(いへづと)
とす。
『壬戌紀行』
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