このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2009年

山吹の里歴史公園〜野口雨情の文学碑〜
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越生町西和田の県道30号飯能寄居線沿いに「山吹の里歴史公園」がある。


山吹の里


伝山吹の里

 室町時代、 太田道灌 が川越の領主だったころの話である。道灌が父の道真を訪ねた折、このあたりでにわか雨にあったので、近くの農家に立寄り簑を借りようとした。すると一人の少女が出てきて、だまって山吹きの花をさし出した。

 道灌は、山吹きの花にちなんだ古歌、「七重八重花は咲けども山吹の実(簑)の一つだになきぞ悲しき」が考えつかず、少女の思いが分からずに恥をかき、のち大いに学問にも励み、文武両道を兼ねた名将といわれるようになったのだという。この話は広く知られており、山吹の里と称するゆえんである。

埼玉県

歌碑があった。


七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき

『後拾遺集』に収録された兼明親王の歌である。

 越生は太田道灌ゆかりの地である。龍ヶ谷の戸神には道灌誕生の地と伝えられる山芝庵跡がある。道灌の父道真が退隠後、居館自得軒を構えた小杉の建康寺周辺には、陣屋、馬場、砦、道灌橋などの名が遺されている。そして、文明年間に道真と道灌が中興した古刹龍穏寺には、父子の墓がある。

 当地山吹の里は、古くから山吹の自生地であり、かつては山吹の小名で呼ばれていた。また報恩寺年譜文明18年の条や、熊野那智大社米良文書に、山吹のという姓が見られることから、中世越生郷に武士団児玉党越生氏一族の山吹氏が居たことも知れる。

 この史跡が郷土の誇りとして、永く後世に受け継がれることを願い、ここに歌碑を建立する。

越生町教育委員会 越生町観光協会

東京都豊島区に 「山吹の里」の碑 がある。

野口雨情 の文学碑があった。


歌に床しきあの山吹の里よ武蔵の越生町

 明治以来の悲願であった八高線が越生まで開通はこびとなった昭和8年、町の有志は記念事業として郷土の唄をつくろうと協議、当時野口雨情先生に師事していた津久根の新井幸作氏に仲介の労を依頼した。

 快諾された先生は越生まで足を運び、数日滞在、今に残る名作「越生小唄」と「山吹の里」を創られた。作曲は雨情先生の作品を数多く手がけられた荘意清水先生である。同年3月16日、両先生来駕のもと、越生本町にあった労働会館で盛大な発表披露会が行われた。

 ここに作品誕生60年を記念し、野口雨情先生の文学碑を建立する次第である。

越生町教育委員会 越生町観光協会

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