このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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種田山頭火の句碑

あんな船の大きな汽笛だつた

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 明治23年(1890年)3月27日、兼﨑地橙孫は山口市に生まれる。本名理蔵。

 明治43年(1910年)2月21日、河東碧梧桐 は下関で同人に会う。

 二月二十一日。半晴、寒し。

 無事。門司同人不稀翁、春五、地橙孫始め四五人に襲われた。(長門下関にて)

藁火焚けば磯千鳥海苔を掻き捨てし
   不稀翁

海苔を板に漉く日薄雪透垣(すいがい)
   地橙孫

麩の色も想ひ出や斎(とき)の海苔の味
   碧梧桐


 大正11年(1922年)11月、地橙孫は下関市に移住。馬関毎日新聞社主幹就任。

 昭和5年(1930年)11月20日、種田山頭火は門司から関門海峡を渡り、下関へ。

下関市唐戸町の国道9号沿いに種田山頭火の句碑があった。


あんな船の大きな汽笛だつた

出典は 『行乞記(一)』

23日、地橙孫宅で詠まれた句。

 昭和9年(1934年)2月20日、山頭火は長府の黎々火居から海岸線を下関へ歩く。午後、地橙孫居を訪ねている。

 昭和32年(1957年)9月3日、地橙孫は67歳で永眠。

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