このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
正岡子規の句碑
『はて知らずの記』
みちのくへ涼みに行くや下駄はいて
秋風や旅の浮世の果知らず
稲荷坂
花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保17年(1732年)の『江戸砂子(すなご)』にその名が見え、明治29年(1896年)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ。」とある。
稲荷坂を下ると、花園稲荷神社の隣に五條天神社がある。
御祭神 大己貴命(おおなむじのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと)
大己貴命(おおなむじのみこと)は大国主命(おおくにぬしのみこと)のこと。
第12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられる。
五條天神社の入口に正岡子規の句碑がある。
みちのくへ涼みに行くや下駄はいて
秋風や旅の浮世の果知らず
明治26年(1893年)7月19日、正岡子規は「はてしらず」の旅に出る。
松島の風に吹かれんひとへ物
一句を留別として上野停車場に到る。折ふし來合せたる瓢亭一人に送らる。我れ彼が送らん事を期せず彼亦我を送らんとて來りしにも非ざるべし。まことや鐵道の線は地皮を縫ひ電線の網は空中に張るの今日椎の葉草の枕は空しく旅路の枕詞に殘りて和歌の嘘とはなりけり。されば行く者悲まず送る者歎かず。旅人は羨まれて留まる者は自ら恨む。奥羽北越の遠きは昔の書にいひふるして今は近きたとへにや取らん。
みちのくへ涼みに行くや下駄はいて
など戲る。
上野ステーション
(明治時代/井上安治画)
8月20日正午、子規は30日の旅を終えて上野に着く。
二十日は白河の関にて車窓より明け行く。小雨猶やまず。正午上野着。
みちのくを出てにぎはしや江戸の秋
わが旅中を憶ふとて
秋やいかに五十四郡の芋の味
鳴雪
帰庵を祝ふとて
白河や秋をうしろに帰る人
松宇
始めよりはてしらずの記と題す。必ずしも海に入り天に昇る覺期なも非ず。 三十日の旅路恙(つつが)なく八郎潟を果として歸る目あては終に東都の一草庵をはなれず。人生は固よりはてしらずなる世の中にはてしらずの記を作りて今は其はてを告ぐ。はてありとて喜ぶべきにもあらず。はてしらずとて悲むべきにもあらず。無窮時の間に暫らく我一生を限り我一生の間に暫らく此一紀行を限り冠(かうむ)らすにはてしらずの名を以てす。はてしらずの記こゝに盡きたりとも誰れか我旅の果を知る者あらんや。
秋風や旅の浮世の果知らず
鴎外温泉
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