このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
下 町
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墨田区
向島百花園
〜御成座敷〜
1年半振りに向島百花園へ。
向島百花園は文化・文政時代、佐原鞠塢
(きくう)
によって開設された。百花園の名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、
酒井抱一
が命名したという。亀戸の
梅屋敷
に対し「新梅屋敷」と呼ばれたりしたそうだ。
酒井抱一
(1761−1828)
は江戸後期の画家で、狂歌・俳諧なども嗜む。代表作「夏秋草図屏風」。
佐原鞠塢
(きくう)
は天明年間に仙台から江戸に出た。日本橋住吉町に骨董店を開き、北野屋平兵衛と称する。当時、
亀田鵬斎
と交流があった。本所に隠居してから菊屋宇兵衛、略して菊宇と称した。それを鵬斎の助言によって鞠塢と改めたそうだ。寺島村に多賀屋敷と呼ばれていた土地を得て、百花園を開いた。
加藤千蔭が「お茶きこしめせ、梅干も候ぞ」と書いた掛け行燈があったそうだ。
加藤千蔭
(1735−1808)
は江戸後期の国学者・歌人。本姓、橘氏。著「うけらが花」など。
門前の婆々が榎の涼し過
一茶
連歌めせめせ萩も候
ゝ
『迹祭』
鞠塢は
道彦
門の四天狗と言われた俳人。道彦も仙台の人である。
文政9年(1826年)、鞠塢は
『墨多川集』
刊行。
すみだ川くれぬうちより朧也
一茶
すみだ川の露や三月十五日
菊塢
天保3年(1832年)8月29日、鞠塢
(きくう)
没。70歳。
鞠塢
(きくう)
から8代目の佐原滋元
(しげもと)
氏が百花園内で
茶店「茶亭さはら」
を営業している。「お茶きこしめせ、梅干も候ぞ」と書いた掛け行燈は、今でも売店の店先に掛かっているそうだ。
向島百花園に入ると、亀田鵬斎「墨沱梅荘記」の碑があった。
亀田鵬斎「墨沱梅荘記」の碑
墨沱の瀕
(ほとり)
葛陂の傍、荒圃鋤かれて新園成る。之に梅一百株を植う。毎歳立春伝信の候より二月啓蟄の節に捗
(わた)
り、樹々花を着つけ満園雪の如し。之を望めば則ち白浪空に翻るが若く、蓬莱の銀闕水底に在りて近づくべからざるが若きなり。
亀田鵬斎「墨沱梅荘記」
百花園は梅の名所だったようである。
「墨沱梅荘記」は文化11年(1814年)2月15日に書かれたもの。
亀田鵬斎
(1752−1826)は江戸後期の儒者。
角田川あみして秋の句を得たり 鵬斎
『墨多川集』
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