このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
下 町
板橋宿
〜旧中山道〜
JR埼京線板橋駅西口を出て、駅前本通りを行く。
駅前本通りは旧
中山道
。
首都高中央環状線の下を通り、不動通り商店街を行く。
中山道第1宿板橋宿である。
板橋宿の入口『木曾街道板橋之駅』
板橋宿は平尾宿(下宿)、仲宿(中宿)、上宿の3宿域でが成り立っていた。
花の湯の脇の路地を入ると、アーバンハイムの前に板橋宿平尾町脇本陣跡の石碑があった。
板橋宿平尾町脇本陣跡
近藤勇は流山で恭順した後、平尾町脇本陣豊田市右衛門邸に幽閉されたと言われているそうだ。
次の路地を入ると、板橋地域センターがあった。
1階の「いたばし観光センター」で板橋宿のことを詳しく説明してくれる。
平成17年(2005年)4月23日、「いたばし観光センター」開設。
王子新道を越えて仲宿に入ると、スーパーマーケットの隣に板橋宿本陣跡の石碑があった。
板橋宿本陣跡
スーパーマーケットの先を行くと板橋があった。
板橋
距日本橋二里二十五町三十三間
日本橋から十粁六百四十二米
板橋宿
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2Km)の長さがあり、この橋から京よりを
上宿
と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、3宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌『江戸名所図会』の挿絵からこの橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)あり、少なくとも寛政10年(1798年)と天保年間の二度修復が行われたことがわかっています。近代に入ると大正9年に新しい橋に架け替えられましたが、自動車の普及に対応するため昭和7年に早くもコンクリートの橋に架け替えられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架け替えられたものです。
平成12年3月
板橋区教育委員会
中宿の様子『江戸名所図会』
中仙道の首にして日本橋より二里あり。往来の行客常に絡繹たり。東海道は川々の差支へ多しとて、近世は諸侯を初め往来繁ければ、伝舎
(はたご)
酒舗
(さかや)
軒端を連ね繁盛の地たり。駅舎の中程を流るゝ石神川
(しやくじがは)
に架する小橋あり。板橋の名こゝに発
(おこ)
るとぞ。(板橋は上下に分てり。この地を下板橋と称す。上板橋は練馬通道にして、この地よりは西南の方の通路をいふ。)
按ずるに、この地を板橋と唱ふる事、『義経記』にみえたり。太田原北条家の所領役帳に、板橋又太郎板橋にて毛呂分の地を領し、太田新六郎も板橋大炊助
(おおいのすけ)
屋敷分の地を領し、恒岡弾正忠も板橋高本方の地を領する事を挙げたり。
『江戸名所図会』
(板橋の駅)
文化5年(1808年)5月25日、一茶は
草津
に向かう途中で板橋を通った。
板橋、上練馬、上ねりま村
大山道字野山
道有、白子駅にて昼食す、板橋より一里八丁といふ。
「草津道の記」
同年12月15日、一茶は郷里の柏原から江戸に向かい、板橋の山城屋に泊まる。
十五[日] 晴 板橋山城屋
雪雹
(ひさめ)
うしろ追うれて六十里
『文化五・六年句日記』(文化5年12月)
文化9年(1812年)11月17日、一茶は板橋に泊まり、江戸を引き上げる。
十七日 晴 板橋泊
『七番日記』(文化9年11月)
板橋
かしましや江戸見た厂
(かり)
の帰り様
『七番日記』(文化10年2月)
文化10年に江戸に出てきた様子はない。
文政7年(1824年)4月26日、護物は江戸を旅立ち、板橋の宿で見送りの人と別れた。
卯月廿六日、武江の草庵を旅だつ。板橋のすく より送れる人々にわかれ、練馬のかたへ杖をいそがす。
井戸ばたの芍薬みする茶店哉
護物
途中、
秩父根へ風吹かへす穂麦かな
桐堂
『燧袋』
天保2年(1831年)10月11日、渡辺崋山は「毛武」へ旅立ち、板橋に立ち寄った。
此日は雨ぞふる。板橋にいたる。この頃岩本茂兵衛こもの吉兵衛といふもの、江戸に出であきなひす。板橋に飲し、逢んと約す。きたらず。出づ。
渡辺崋山
「毛武游記」
嘉永6年(1853年)5月24日、吉田松陰は蕨から板橋を経て江戸に至る。
二十四日 晴。蕨を發し、板橋を經、亦勝田次郎の管する所なり。
『癸丑遊歴日録』
文久元年(1861年)11月14日、
皇女和宮
は板橋宿に宿泊し、翌15日に江戸清水殿屋敷に入る。
下 町
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください