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私の旅日記
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2004年
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申孝園(国柱会)
〜宮澤賢治の辞世の歌碑〜
申孝園(国柱会)に
宮澤賢治
の辞世の歌碑があるそうだ。「ご連絡いただければ、いつでもご見学いただけます。」というので、電話をして、行ってみた。
JR総武線新小岩南口から都バス今井経由葛西駅行きに乗り、平和通りを行く。
首都高7号小松川線を越えると、バスは左折して今井街道に入る。
「今井街道」は、旧江戸川今井橋から荒川小松川橋までの約3キロ。江戸時代には千葉方面から江戸へ塩を運ぶ唯一の「塩の道」として賑わったそうだ。
一之江5丁目で降りる。
セブンイレブンの角を入ると、長勝寺があった。
長勝寺の隣が
国柱会(HP)
。
宗教法人
国柱会
申孝園(国柱会)
昭和3年(1928年)4月田中智学により造営されたものである。智学は10歳の時妙覚寺に入り剃髪して智学といった。明治17年(1884年)在家仏教の教団立正安国会を創立したが、大正3年(1914年)新たに国柱会を組織した。
北原白秋
の3人目の奥さんの菊子夫人は、白秋と結婚前、田中智学の側近に仕えた人で、生涯国柱会の会員であった。
参道を入っていくと、国柱会本部がある。
「国柱会講師補」という名刺を持った方が宮澤賢治の辞世の歌碑に案内してくれた。
宮澤賢治の辞世の歌碑
方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる
病
(いたつき)
のゆゑにもくちんいのちなりみのりのに棄てばうれしからまし
「絶筆短歌」と呼ばれている有名な2首だそうだが、私は賢治の短歌など知らなかった。
昭和57年(1982年)の賢治50回忌に建立された。
応接セットのある喫煙室で、お話を聞かせていただく。
大正7年(1918年)4月、鶯谷に国柱会館落成。
宮澤賢治が国柱会に入会したのが大正9年(1920年)9月。
賢治が鶯谷の国柱会館を訪れたのは大正10年(1921年)1月24日。まだ申孝園はなかった。
「国柱会」と言えば、もう1人思い浮かぶのが石原莞爾(1889−1949)である。
石原莞爾が国柱会に入会したのは大正9年(1920年)4月。石原莞爾が陸軍大尉で中支那派遣軍司令部付として漢口へ赴任することになった時のこと。大正10年(1921年)7月には陸軍大学校兵学教官になっている。
賢治の妹トシが亡くなったのは大正11年(1922年)11月。賢治は妹トシの遺骨を三保最勝閣へ持参した。現在、妹トシの遺骨は妙宗大霊廟に納められている。
大正11年(1922年)9月、石原莞爾は軍事研究の為ドイツ駐在。
宮澤賢治と石原莞爾の2人はすれ違いの人生であった。
どこかで顔を合わせているかもしれないが、当時の賢治は無名の人であった。
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