このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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馬込文士村散策の道
京浜東北線大森駅西口を出る。
天祖神社の脇の坂道に「馬込文士村散策の道」の案内がある。
今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになりました。
文士や芸術家たちが住み始めた頃、大森駅前の高台は都市近郊の別荘地として知られていました。一方の馬込は雑木林や大根畑が広がる一帯でした。
馬込の大根畑の真ん中に若い尾崎士郎・宇野千代が移ってきたのは大正12年(1923年)のこと。
士郎は文学仲間を次々と誘い、社交的な二人は文士たちの中心的な存在となりました。
大正12年といえば関東大震災の年。東京近郊へ移り住む人々が急増し、馬込一帯も次々に宅地化され、景観が大きく変わってきた時代でした。
天祖神社の石垣のレリーフに解説が書いてあった。
二人が夫婦であった頃、彼らの人柄を慕う仲間で家の中はいつも賑わい、文士の話題が飛び交うので「馬込放送局」と呼ばれていた。
関東大震災の騒ぎが一段落してくると、世間では新しい風俗が見られるようになりました。ダンスホールができ、洋装のモダンボーイや断髪姿のモダンガールが現われ、大正14年には麻雀が大流行、麻雀カフェーができました。広津和郎も麻雀カフェーに通った一人で、馬込の自宅にも麻雀を持ち込み、文士たちに伝授しました。
文士村の女性たちが相次いで断髪。モダンガールは馬込村の人々を驚かせた。
昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。まだ若かった馬込の文士たちにとっても将来に不安の多い時代であったといえます。仲間同士が集まって気を紛らわそうというのか、麻雀に続いて馬込の面々が凝り始めたのはダンスでした。衣巻家のアトリエで開かれるダンスパーティーに通ってきたのは、
萩原朔太郎
夫婦や
室生犀星
、宇野千代、時には
川端康成
夫人の姿もありました。
馬込文士村時代、それは女性活躍の時代でもあった。
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