このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

辨天神社〜碑巡り〜
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浜松市西区舞阪町弁天島に辨天神社がある。


弁天島と天女

 昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を立てるからここに留まってほしいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。

 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、洲崎の一部であった弁天は湖(うみ)にとり残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709年)今切渡海安全のため、この島に辨天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人々に信仰されています。

 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原華山、松島十湖の文学碑があります。

正岡子規の句碑


天の川濱名の橋の十文字

  正岡子規(1867〜1902)は、愛媛県松山市の出身の俳人・歌人で俳句革新運動を起こしました。この句は明治28年(1895年)秋に上京した際、途中汽車の車窓より浜名湖を眺めて詠んだ作品とされています。句碑は大正14年(1925年)に浜松曠野社(加藤雪腸主宰)が建立しました。

松島十湖の句碑


月風や夏しら波の海と湖

  松島十湖(1849〜1926)は浜松市出身の県西部地方の明治・大正期を代表する俳人の一人で、報徳運動家、政治家でもありました。この句は明治41年(1908年)夏の作で、句碑は大正初年に建立されたと思われます。

茅原華山は知らなかった。

明治37年(1904年)、万朝報に入社。

昭和27年(1952年)8月4日、82歳で死去。

表記できない漢字があった。

昭和29年(1954年)4月10日、 水原秋桜子 は弁天島に泊まる。

   浜名湖弁天島に泊る

空に雲湖に干潟の朧なり

湖畔亭干潟につづく朧なり

『帰心』

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