このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

犀ケ崖古戦場〜大島蓼太の句碑〜
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 国道257号(姫街道)と県道48号舘山寺鹿谷線(舘山寺街道)の交差点に犀ヶ崖公園がある。

三方原古戦場犀ヶ崖


史蹟 犀ヶ崖古戦場

 犀ヶ崖古戦場は、元亀3年(1572年)12月22日、 徳川家康武田信玄 が三方原の戦いの際、このあたりに野営していた武田勢を徳川勢が急襲してこれを敗った古戦場であり、この時武田方の軍が地理を誤り、この崖に落ちて多くの人馬を失ったと伝えられている。

 当時の犀ヶ崖は、東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁で、その深さは約40mに及んでいたと伝えられている。

 県指定史跡の現況(60年3月現在)は、長さ約116m、幅約29m〜34m、深さ約13mである。

 又、崖の上には宗円堂があり、ここに両軍戦死者の霊がまつられ、その慰霊のため創始されたといわれる遠州大念仏の道場となっていたが、現在は、犀ヶ崖資料館として遠州大念仏の資料が展示されている。

浜松市教育委員会

本多肥後守忠真顕彰碑


 この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。

 本多忠真は、徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。

 本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出ました。道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。

 忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。

 この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。

 また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。

犀ヶ崖公園の北側に 大島蓼太 の句碑があった。


岩角に兜くだけて椿かな

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