このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

徳川家康公像〜静岡駅北口駅前広場〜
indexにもどる

 静岡駅北口駅前広場に徳川家康公像・竹千代君像があるというので、立ち寄ってみた。

竹千代君像


 松平竹千代は8歳から19歳まで、多感な少年時代を今川氏の人質としてこの駿府ですごした。今川義元の軍師雪斎の薫陶をうけるなど、武将としての資質がこのころ培われ、のちの名将徳川家康公の出発点となっている。

徳川家康公像


平成21年(2009年)3月、大御所四百年祭記念事業で建立。

  徳川家康 は今川氏の人質となっていた少年期、「五カ国時代」といわれた壮年期、「大御所時代」の老年期と、生涯のうち三度駿府に居住していた。この像はその中で、壮年期の姿をあらわしたものである。

 家康は同盟者であった 織田信長 が本能寺の変で討たれる直前、駿河・遠江・三河の三カ国を支配していたが、信長死後、混乱していた甲斐・信濃を征圧して五カ国の大名となった。その後、小牧・長久手の戦いで 豊臣秀吉 と互角に戦っている。しかし、結局は秀吉に臣従する形となり、天正14年(1586年)、本拠をそれまでの浜松から駿府に移し、五カ国支配に専念することになった。交通路の整美、商工業の振興、新田開発などを推進し、「五カ国検地」「七カ条定書」の制定など、農政にみるべき成果をあげている。この「五カ国時代」の農政の基本が、その後の幕藩制支配に受け継がれているのである。

  駿府城 の築城にもとりかかり、城下町駿府の町立ても進められたが、天正18年(1590年)の秀吉による小田原攻めの論功行賞で後北条氏遺領関八州へ転封となり、 江戸城 へ移っていった。

 平成22年(2010年)12月24日、久能山東照宮は国宝に指定されたそうだ。

「私の旅日記」 のトップページへ



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください