このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
夏目漱石ゆかりの地
本法寺
〜清の墓〜
文京区小日向1丁目に本法寺というお寺があった。
高源山随自意院本法寺
高源山随自意院本法寺は、東本願寺の末寺で、
眞宗大谷派
に属し、夏目漱石(金之助) の菩提寺である。
夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。明治14年1月に母、20年3月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊ちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。
境内には、早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した
漱石の句碑
がある。
早稲田大学創立125周年記念
「早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ」
明治25年(1892年)5月、漱石は東京専門学校(現早稲田大学)の講師となった。
漱石の句碑
梅の花不肖なれども梅の花
夏目漱石は、明治22年2月5日に「兄の死」と題し一高で英語の演説をし、墓参の心境と境内の情景を語った。29年正月松の内には本法寺で「展先妣墓」として「梅の花不肖なれども梅の花」と詠んだ。名作「坊ちゃん」の清の墓のモデルも他ならぬ小日向の菩提寺のこの墓である。
平成14年3月吉日
早稲田大学総長 奥島孝康 識
『坊ちゃん』には「清の墓は小日向の養源寺にある。」と書いてある。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
文京区立第五中学校の前に「旧町名案内」があった。
旧小日向水道町
(昭和41年までの町名)
古くは小日向村の内で、ほとんど畑であった。明暦2年(1656年)、町屋となった。正徳3年(1713年)、町方支配となった。
承応年中(1652〜55)から、町は神田上水定浚
(じょうさらえ)
を命ぜられたので、水道町と名づけられた。
明治2年、智願寺、清光院、龍興寺の門前を併せ、同5年久世氏邸および武家地、寺地を併せた。
大日坂から西、音羽通りの崖上一帯は、下総関宿の藩主久世大和守(老中職の家柄)の下屋敷であった。明治維新後長く草原となり、今も「久世山」と呼ばれている。
いつしかに星夜となりて久世山の
木々にまつはる霧消えにけり
(金子薫園)
金子薫園(1876〜1951)は東京の生まれ。本名、雄太郎。浅香社に入り、和歌の革新運動に参加。明星派に対抗して白菊会を結成。歌集に「片われ月」「草の上」「白鷺集」など。
金子薫園宅は湯島六丁目二十七番地(本郷3−3−10辺り)にあった。
明治39年(1906年)9月16日、
若山牧水
は土岐湖友(善麿)、に伴われて金子薫園宅を訪問している。
文化7年(1810年)10月8日、小林一茶は
松井
と
護国寺
の元善光寺開帳に参詣する途中、水道町を通りがかる。
八 晴 松井ト元善光寺開帳参 公のサワリ有て閉帳 十四日迄延
八日 水道町にて
十月やほのぼのかすむ御綿売
『七番日記』(文化7年10月)
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