このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

2019年の旅日記

徳島城跡〜蜂須賀家政〜
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徳島市徳島町城内に徳島城跡がある。

数寄屋橋


 徳島城の鬼門(北東)にあたる門が、旗櫓(はたやぐら)の下にあった数奇屋門です。別名「不明門(ふみょうもん)」とも呼ばれたように、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。

 その数奇屋門の東側、堀に架け渡されていた橋が数寄屋橋です。長さ5間=約9.75m、幅1間=約1.95mの太鼓橋でした。現在は、木製の橋が架けられており、往時をしのばせるものとなっています。

城壁は低く、堀も狭い。

国史跡 徳島城跡


国指定史跡 徳島城跡

 徳島城は、天正13年(1585年)に阿波国(17万6千石※)の領主となった蜂須賀家政(1558〜1638)によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。

 徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。

 藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることが出来ませんでした。

 藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。

[※元和元年(1615年)、初代藩主至鎮は、大坂の陣の功績により淡路一国を加増され、蜂須賀氏は阿波・淡路25万7千石の大名となりました。]

蜂須賀家政は蜂須賀正勝の嫡男。至鎮(よししげ)は家政の長男。

徳島城鷲の門


 徳島城(別名渭津城)は、天正13年(1585年)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。幕藩時代を通じ蜂須賀家が十四代にわたって居城し、280余年の間、阿波・淡路両国二十五万七千八百石を支配した。

 鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。幕府に鷲を飼うからと申し立て建設したところから鷲の門の名があると伝えられている。

 廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和20年(1945年)7月4日早暁の徳島大空襲によって焼失した。

 現在の鷲の門は、平成元年(1989年)9月27日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルヱ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。

徳島市

下乗橋(小見付橋)


 城内の掘に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入口にあたります。この橋を渡ると桝形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていました。下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来しています。明治2年(1869年)に花崗岩製となり、さらに同41年(1908年)現在のように水平の橋に改造されました。

記念碑


阿波の殿様蜂須賀さまの今にのこせし阿波踊り

平成13年(2001年)8月11日、岡田昌治建立。

日本100名城 No. 76である。



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