このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2005年

世田谷代官屋敷〜北原白秋の歌碑〜

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 東急世田谷線世田谷駅から世田谷通りを越えると、ボロ市通りに世田谷代官屋敷がある。


世田谷代官屋敷表門


東京都教育委員会の解説が書いてあった。

都史跡 世田谷代官屋敷

 江戸時代の初め、大場氏は彦根井伊家領世田谷(2,300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲した。

 この屋敷は江戸中期の建築であるが、母屋は約70坪(約231.4平方メートル)、萱葺き、寄棟造りで、萱葺きの表門とともに、旧時の遺構をとどめ、関東地方における代官屋敷としての規模をよく保存している。

 なお、この屋敷に収蔵されている古文書類1,500余点は、昭和27年11月3日に都重宝として指定されている。

東京都教育委員会の説明の隣に世田谷のボロ市の説明が書いてあった。

世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)

世田谷のボロ市

 世田谷のボロ市は、天正6年(1578年)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、1ヶ月に6日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に1回、12月15日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、1年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。

 この市は、明治6年(1873年)の太陽暦の採用によって、翌7年から旧暦の歳の市に相当する1月15日にも開かれるようになり、また明治中期には16日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。

 ボロ市は400年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。

こちらは世田谷区教育委員会の解説である。

表門を裏から見る。


世田谷信用金庫が見える。

世田谷信用金庫本店の前に 北原白秋の歌碑 があった。


ぼろ市に冬はまづしき道のしも桜小学に通ふ子らはも

歌碑には何の解説がない。

 昭和3年(1928年)4月、北原白秋は子供の成城学園入学のため、大森馬込から世田谷区若林に転居した。

   桜を思ふ

桜小学校に桜の校歌成りにけり子ら歌ふ頃は花の咲かむぞ

襤褸市に冬は貧しき道の下桜小学校に通ふ子らはも

『白南風』

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