このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2004年
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がま石園地
〜回顧の滝〜
東北自動車道を行く。
那須に行こうかと思ったが、那須の辺りは雲に覆われている。
西那須野塩原ICから国道400号で塩原へ。
風花が舞う。
がま石園地に尾崎紅葉の碑がある。
俥を駆りて白羽坂を踰えてより、回顧橋
(みかへりばし)
に三十尺の飛瀑をふみて、山中の景は始て奇なり。これより行きて道有れば、水有り、水有れば、必ず橋有り、全渓にして三十橋、山有れば巌
(いは)
有り、巌有れば必ず瀑
(たき)
有り、全嶺にして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯。猶数ふれば十二勝、十六名所、七不思議、誰か一々探り得べき。
尾崎紅葉の碑の説明が書いてあった。
尾崎紅葉の碑
尾崎紅葉
の代表作『金色夜叉』は明治30年から35年まで断続的に読売新聞に連載されたが、紅葉死去のため未完に終わっている。
紅葉は明治32年6月9日から3泊4日で塩原を訪ね、名所旧跡を始め食事の内容までこと細かに書き留め、後に「塩原紀行」と題して発表されている。
碑文は、明治33年12月に書き継いだ『続々金色夜叉』の始めの部分で、特に銘文として名高く、言葉をつくして塩原の風景を賞賛している。
この碑は、塩原の名を全国に広めた紅葉の功績を記念して、塩原温泉の入口であるこの地に建立されたものです。
【尾崎紅葉】
1867年(慶応3)〜1903年(明治36)、本名、徳太郎。
慶応3年生まれは
幸田露伴
、
夏目漱石
と同じである。幸田露伴は昭和22年82歳で没す。尾崎紅葉は36歳で亡くなっているわけだ。
江戸生まれ。明治18年「硯友社」という近代文学最初の文学結社を結成、機関誌の第1号「我楽多文庫」を発行。明治22年帝国大学在籍のまま読売新聞に入社、代表作を次々と発表。「三人比丘尼色懺悔」「多情多恨」「金色夜叉」など。
がま石園地に塩原軌道駅舎があったそうだ。
塩原軌道駅舎跡
塩原町教育委員会の説明が書いてあった。
塩原軌道は明治45年(1912年)7月8日に西那須野〜関谷間が開通し、大正4年10月、新塩原駅(現在の入勝橋付近か)まで延長された。
大正2年(1913年)6月15日、東洋大学の創設者
井上円了
は塩原温泉を訪れ、「塩原紀行」に「西那須野より関谷村まで3里の間、近ごろ軽便鉄道を敷設し、機動車野の往復あり。」と書いている。
大正10年(1921年)、塩那電気(株)から電力の供給を受け、大正10年〜新塩原間が電化され、会社名も「塩原軌道株式会社」から「塩原電気株式会社」と改称された。
翌、大正11年(1922年)4月には、塩原口(現在のがま石園地)まで延長、花電車が運行され開通を祝った。
尾崎紅葉が塩原を訪ねた時、塩原軌道は開通していなかったわけである。
がま石園地から回顧
(みかえり)
の吊橋まで下りる。
回顧
(みかえり)
の吊橋
長さ100mの吊橋だそうだ。
回顧
(みかえり)
の吊橋から箒川上流を望む。
回顧
(みかえり)
の吊橋を渡り、回顧
(みかえり)
の滝を望む。
回顧
(みかえり)
の滝は塩原10名瀑の一つ。落差約70m。
上塩原温泉
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