このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2014年
〜
鳥取城跡
〜吉川経家公〜
鳥取市東町に鳥取城跡がある。
史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
鳥取城は、土でできた城(中世城郭)と、石垣でできた城(近世城郭)という2種類の城で構成されています。太閤ヶ平
(たいこうがなる)
は、
羽柴(後の豊臣)秀吉
による鳥取侵攻の際に本陣が置かれた場所であり、ここを中心として吉川経家率いる鳥取城を攻めました。当時の城は久松山頂にあり、対する秀吉は全国最大級とも言われる強固な包囲網で山全体を幾重にも取り囲み、徹底的な兵糧攻めを行いました。経家の自刃により戦いは終わりましたが、山中には今なお多くの陣跡が残っています。
この戦いの後、城に入った宮部継潤により石垣を持つ近世城郭整備が始まったとされます。江戸時代に入ると池田長吉により基本的な部分がつくられ、池田光政期に32万石の城郭としての大規模な整備が行われ、ほぼ現在の形となりました。石黒大火では城の大半を焼失してしまいましたが、増改築を繰り返しながら幕末期を迎え、明治時代に入ると建物は順次撤去されました。
鳥取市教育委員会
中仕切門
史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
世城郭としての鳥取城
現在見られる石垣で造られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582年)から嘉永2年(1849年)の約270年の間に段階的に整備されたものです。特に元和3年(1617年)に入城した池田光政は、それまで5〜6万石規模だった城を32万石の居城として一新します。中ノ御門から続く大手登城路や、天球丸・二ノ丸も整備し、城の主要な部分はこの時に完成しました。城内には、幕府の規制で3階以上の建物はありませんが、二ノ丸には創建時、最新の建築様式だった層塔型(正方形の櫓台に築かれ、上階を下階より規則的に小さくして積み上げた櫓
(やぐら)
。初期のものは装飾がないデザインが特徴)の三階櫓が、山陰地方で初めて建てられました。
その後の鳥取城は、藩主の生活と藩の役所を担った御殿を中心に増改築されていきます。江戸時代の終わりには、二ノ丸や三ノ丸が大きく拡張されたほか、三ノ丸の南側には、凶作に備えて籾
(もみ)
を保管する倉庫群が造られました。
城内の建物は、明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943年)の、鳥取大地震で多くが崩れました。城の建物は残っていませんが、宝扇庵(旧化粧の間)や倒壊後復元された中仕切門が当時の面影を今に伝えています。
鳥取市教育委員会
二ノ丸跡
史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
二ノ丸跡
二ノ丸には、江戸時代前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。鳥取池田三代・吉泰の時代に、御殿が三ノ丸に移され、享保5年(1720年)の石黒大火で全体が焼失しました。三階櫓などは早く復旧されましたが、御殿は幕末の弘化3年(1846年)になるまで再建されませんでした。二ノ丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれており、昭和32年(1957年)に国に史跡に指定された後、最初に石垣の修復工事が行われました。
鳥取市教育委員会
山上ノ丸へ行く登城道があった。
思いがけない登山であった。
本陣山
目の前、1.5km先に見える山を本陣山(標高252m)といいます。天正9年(1581年)、羽柴(後の豊臣)秀吉が、鳥取城を兵糧攻めした際に、この山の頂に本陣を構えました。
本陣部分は、太閤ヶ平とも呼ばれていますが、巨大な土塁や空堀が当時のまま残されており、戦闘の際に築かれた臨時的な土の城としては、日本最大級と評価されています。
鳥取市教育委員会
本丸跡
鳥取城の山上ノ丸は、山頂部を数段に切り開いて構築し、その中央部の一段高い場所にあたる、この地が本丸である。
本丸には、天守櫓の他、著見櫓・多門櫓、それをつなぐ走櫓などの建物があり、御天守奉行がこれを守っていた。
本丸の中央部には、池田長吉の改築の時掘ったといわれる車井戸がある。
文 化 庁
鳥取市教育委員会
本丸跡の眺望
鳥取砂丘が見える。
2006年4月6日、鳥取城は
「日本100名城」
に認定された。
鳥取市武道館の裏に吉川経家公銅像があった。
平成5年(1993年)10月25日、建立。
吉川経家の鳥取籠城と自刃のこと
天正9年、天下制覇目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年の3月、部下400余人を率いて鳥取城に入城しました。
羽柴秀吉はこの年の7月、2万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釋山(太閤ヶ平)に本陣を置き、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約20キロメートルに及ぶ大包囲陣を敷いて、徹底した兵糧攻めをしました。
鳥取城に籠った2千の兵と民は、毛利方からの救援と食糧の補給を期待し、吉川元春も数回にわたり食糧の送り込みを行いましたが、秀吉方の厳重な遮断により一粒の米も搬入できず、8月以降、次第に飢えてきました。
そして、9月、10月になると、すべての食糧を食いつくし、遂には人肉を食するという地獄さながらの状態になりました。世に言う「鳥取城の渇殺」であります。
経家は遂に意を決して、秀吉の開城の求めに応じました。この時秀吉は、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」とすすめましたが、経家は、「全ての責は城将たる自分にある」として、兵と民の生命を救って10月25日未明、城中広間において、見事な自刃をいたしました。時に年35歳。その潔い最期は、武人の鑑として歴史に高く評価されています。
経家が死に臨み、4人の子に遺した次の手紙は、その清々しい心事を物語るものとして、いつまでも人の心を打つものがあります。
「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候 かしこ
天正九年十月弐五日 つね家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給へ」
鳥 取 市
吉川経家公銅像建立委員会
「私の旅日記」
〜
2014年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください