このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

富山城址公園〜滝廉太郎修学の地〜
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本願寺富山別院 から富山城址公園へ。

郷土博物館


野面積み

 「野面積み」とは、自然石を石垣とした積み方です。富山城では、河川の玉石の丸い面を残していることが特徴です。石と石との隙間は、小石や割石などで埋められており、排水や積石の安定をはかっています。鉄門の内枡形では、方形に加工した石材を水平に積む「布積み」の部分もみられ、巨石の雄大さを演出しています。石垣の内部は、外側から積石、栗石、土塁の三重構造となっています。鉄門石垣の通路面以外は、明治初め頃大きく積み直されたことが発掘調査からわかりました。

富山市教育委員会

濠に映る富山城址


富山市丸の内にマンション堺捨(さかすて)がある。

マンション堺捨の前に瀧廉太郎の像があった。

楽聖 瀧廉太郎の像


昭和53年(1978年)6月30日、九州人おきよ会建立。

滝廉太郎修学の地

 近代日本の生んだ代表的作曲家、 滝廉太郎 (明治12年8月20日生)は、明治19年8月から1年8ヶ月余りの間、父滝吉弘が富山県書記官(現在の副知事職に相当)として着任したことから、少年時代の一時期を富山の地で過ごした。

 富山在任の間、廉太郎は旧富山城内「赤蔵跡」(現在の堺捨旅館の所在地)にあった富山県尋常師範学校小学校の1学年に転入学し、同3年の半ばまで在学した。廉太郎の一連の作曲の中でも「お正月」「雪やこんこん」などは、後年富山の生活をしのんで作曲されたものといわれている。わずか23年10ヶ月の若さで没したが、この間に後生にのこる数々の名曲を作った。

 修学碑は、滝廉太郎の生誕百年を記念し、富山県九州人会「おきよ会」が、廉太郎ゆかりの地の建立したものである。

富山市教育委員会

台座の左側面に土井晩翠の「荒城の月」が刻まれていた。


春高楼の花の宴
  めぐる盃影さして
千代の松が枝分け出でし
  むかしの光今いづこ



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