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稲津祇空

『烏絲欄』(青流洞祇空編)

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 享保元年(1716年)4月3日、稲津祇空は庵崎の有無庵を出て野州那須烏山の常盤潭北を訪ね、共に奥羽を行脚。9月13日、江戸に戻る。

享保元年(1716年)、『汐越』(潭北編)刊。

享保2年(1717年)、『烏絲欄』(青流洞祇空編)刊。鎧度頭白雲跋。

六とせ住なれし月影のさすや庵崎の有無庵も、さハる事ありて引こほち、雑具、竹樹やうのもの小舟一そうにのせ、この川むかひにかゝるしるへある橋場といふ所へうつしぬ。

   なかるゝやこれも世わたる橋場海苔

さすかに捨もやらす、笘うちきせ、とりはたちもせすなりぬ。としころ奥羽一見の心さしありけれは、このあいたよかんなりとて、卯月はしめの三日あけてや草の枕むすはんと、杖もわらちもとりあへす出けり。

   巣を捨て今は我身を旅雀

おくりの人々もかへりていと心ほそく、行とも道たとたとしからす、四并の勝事をかゝす。妖艶眼に供し、渓辺水人をてらす、と岑參か句も思ひ出て、

   太平の時に袷そ朝ほらけ

その夜は 粕壁 にとまる。あけの日ゆふき 砂岡我尚 亭につく。烏山の潭北といふ人みちのくへの心さしかねて約して待とり、二三日こゝにとゝまり会もよほし、七日はつくは参詣、我尚潭北しるへして出ぬ。三里あまり行て椎尾薬師による。瑤樹山につらなり、水声澗(たに)にそふ勝景なり。桓武天皇勅願所、最仙上人草創にして、本尊は竺月葢長者持仏薬師瑠璃光如来、歴々たる霊地なり。それより盤回して 筑波 にのぼる。男躰の霊社絶頂にあり。小社あまたまはりをかこみ、石の色蒼潤山骨奥巧たり。遠坂曲折にして雲は麓を白峰に綿のことく変態もつとも常ならす。その観るもの奇なれとも形状を悉にすり事あたはす。松は盖のことし。すなはち纏を出て室をむすふのおもひあり。四五町をくたりて女躰にまいる。社頭のさま男躰とおなし。匂ひし花の名残ともなしと、ありし風雅のすしにあふきけんもありかたくこそ。

女体山頂からの眺望


九日、下館古谷氏序吟のもとにやとる。清流寺中村庸沾のかり行、ゆふきにかへる。十一日、早見晋我名こりをしたひて送らる。先 室の八島 に立よる。村を惣社といふ。社の右に八の小島あり。煙をもつてその名たかし。今は水かれ烟たゝす。島塁々として神さひ森樹かうかうしく見ゆ。源重行か京の使にをしへたるも昔に覚ゆ。

呼返す飛脚や杉のかんこ鳥

肝心の鮓にさめたりムギコ(※「麥」+「曲」)めし    潭北

かくて壬生、楡木 へ行て島田五株亭にやとる。会あり。十三日、大谷観音へ松吟、専之にいさなはれ、行程二里石峯、廻堂、石仏、千手の像彫刻せり。勝地の美景を題として奉納の句各あり。暮過て帰る。十四日、かぬまをそ出ける。文交、板橋、 今市 を過て、日光の鉢石にて古橋善右衛門のもとにつく。十五日、案内して社参、先さし入山口しるく、 玉欄干の長橋 今も這よこたふ竜のことし。

山菅の茂みや御橋あかねさす
   晋我

日光東照宮陽明門


深砂王の祠、山王御本社のさまゆゝしく造りならへて、 楼門 彫工の妙手、中々申もはゝかりあり。

   金玉のあつまぞまこと若葉陰

別所にて、

四休せぬ世のつは者や酒の蠅
   潭北

かんまんか淵 にいたる、澗水奔流してくたり、展転大石にふれていかり、又平石をえて霤そゝく事数十丈、つゐに悍然としてかえり見す。百あまりの石仏たてのたくみか手を尽しぬ。帰りはいき石をこえて大杉鬢櫛なけ黒髪山を見、釘抜念仏堂、七滝の一すしにそれともきかず、その日は宿へかへる。十六日、 中禅寺 にとて馬返し村より杖すゝめ不動坂を登りて華厳の滝にくたる。万仭たゝちに落て森豎躍舞せさる事をえさる絶勝なり。それより女躰 中宮の社 うしろに男躰への山道あり。前に三里まはりの湖水塵なく心の垢も洗つへし。磯に舟四五艘あり。六月朔日より浜禅定とて参詣の人々この舟にて勝地名寺めくるよしかたりぬ。

山卯木そも禅定の舟に鷺

梅天や鳰の鏡の男ふり
   晋我

汐ならぬ鈍子の口や青あらし
    北

十八日、 うつの宮 にゆく。正一位勲一等日光山大明神と額にあり。宮殿たかし。

   緑くらく町かゝへたり一宮居

あくれは晋我こゝにて半途のわかれ、再会いつをかとをろをろ泪にて

慈姑や雲出手拭すくひわけ
    北

せめて松島迄はよきついてといへと、中々世の塵にまきらかしてゆく。

   又末の松笠蚊やり見せたしな

たゝふたり坊になりてゆくに、雲勢くろく暑威をはらす、雷声近く雷光地にうつり、雨に羽たゝく烏山斟斗のもとにつく。潭北は母の事心もとなしと、あすあすと申て帰る。あくる日は泉渓寺にゆき、又相しりたる人々も尋ねきて、七八日足をやすむ。廿六日、こゝをたち、潭北は、松島をしま年の豆、と母をいわひ、里杜、如弓も送り、さら戸より馬をかへす。

焼鮎のさら戸もおなし母の影
    北

抽神笠石にて清見原帝の石碑を拝ス。

   吉野ならてこゝも御難に鮎の照

黒羽滝田氏のもとにやとる。 惣社八幡宮 は那須与市扇の的を射たる時願念の霊神なり。鳥井物ふり輪橋瑞籬いとしつけし。それより篠原一里計行。玉藻前の旧跡、 稲荷の社 、杉たちさひ、詣する人も見えす。拝殿にしれる誹子の奉納の句をとゝむ。一むかしを思ひて又書つく。

夏山にはなつひかりや青幣

端山かな茂みの絵馬なつかしき
    北

犬追物の跡数百年のしるし、里人こゝを犬射の馬場といふ。伊王野へゆきて正福寺の閑居にとまる。この庭の泉水、そのかミ鼠楼栗か作れりと。岩姿奇形なみなみにあらす。

藻の花や陰にそろりか蟹の家
    北

廿九日、芦野にて翠桃みちしるへして 遊行柳 、みちのへの清水心よく、兼栽(載)の菴跡爐路の松あり。緑いまにふかし。馬かりて那須野にゆく。藪を出れは野、野を出れは柏原、いくたひかおなしさまにて湯本にとまる。あけの朝、これより二三町山の半腰をつたひて 殺生石 にいたる。谷焦の余烟ところところにもえ、一ケの垣をかこみ、その中に二尺三尺計の赤黒の石十はかりも見ゆ。この毒気にふれて虫こかれ、鳥こゝにたをる。東莱郡の爛鳥にもまさりて冷し。禅師の一棒にくたかれてもたゝ白砂兀山のたゝすまひなり。

   この石は夏を以ての枯野かな

卅日、山道をひたくたりにして、白川柴山氏に午の刻過につく。雨ゆへ滞留。

   鬼門関今はすみよき煮酒かな

「谷響集」に東北の隅を 鬼門関 とす。和朝にては白川なるへし。あふくま川流れて城下町々有。

貫さしや関吹こして夏柳
    北

三日、須加川につく。 等躬 といふ誹のすきもの去年身まかりぬ。息甚蔵を尋しに岩城へ行て逢す。追悼の句をなけて通る。

橘の香や影沼の一おしみ

藤の実の山は浅きにいつれ隈
    北

日和田宿はつれに松浦さよ姫造営の蛇骨の地蔵堂あり。いふかし。 浅香山 は道の東に仮山のことく峠に松一木、旅人ねかひあれは紙を結ひてあさからぬ心をむすふ。沼は西の方山間にあり。かつみはあやめを所のならはしにてこの名をよふよし申ぬ。ふりつゝきたる雨に高倉川水かさまさりぬといへは、さにはあらす、股へはつかす、なといとやすく思ひてゆくに、川こしの奥の飛脚をわたしたるに、まてといふを言葉のなまりにきゝたかへわたりけるに、臍の上迄よゝとひたす。ゆたんもなにもみなぬれて狼藉たり。からうして本宮のはしにとまり、一夜爐辺にてかれこれをとりつくろふもおかし。

五日、けふはあやめの節句、朝とくたちけるに横風人をふきたをす。二本松より 黒塚 を見んと渡しへかゝりけれと、大風にて舟なくてむなしく過る。

   きは墨の閏は見せしなあやめ草

福島にとまり、六日はいからへ村より五六町行、岡辺の渡しをのり、半里余東の麓に しのふ摺の石 あり。苔蘚翠色にして九尺計あり。むかしは絹を摺たるよし。今は石の面は下になりて、背面のみ臥るかことし。

叱と打て鹿子にもせよ石の面
    北

もとの渡しへ帰り、瀬の上より西の一里半行、鯖野村 医王寺 にいたる。佐藤次信・忠信石塔有。義経の笈、弁慶か大般若経一巻、庄司か棺上の鉄燕、矢の根、品々開帳して拝みぬ。

名将の汗もかうはし笈の鈷

実桜はせめてにつよき泪かな
    北

飯坂村に 温湯 あり。すくに通り町を北西へまかり行は、 庄司か館 のあと、大門礎わつかに残り、二十町計くたりて山添に橋あり。世中の人には葛の松原なり。よはるゝ名のうれしき、と有かたき心さしを感し、流れにつきて桑折へ出る。茶屋に腰かけ、食やあると問しに、麦なりと申。これ幸と肉にあつるの味、扨も扨も。

さて此ところに 馬耳 といふ誹子有へきよし、それは佐藤氏なめりと、こゝに案内しけれはいとむつまし。二夜やすみてこれより奥へゆくに、なを帰路を契りて出ぬ。藤田にて佐藤如琢をたつぬ。恬漠高情の人なり。詩にして禅なり。近き辺をあなひして、その尻につきてゆく。明の薬師、夜あけの松、 よしつね腰かけ松 、方二十間にあまり、秀技黛色中に連理の梢をかはし、蒼竜美髯のさま当時無双の名木なり。

   松か根に登り義経団かな

絶句贈答あれともらしつ。それより 大木戸 、火の手山、左の竹藪の内を下紐の関あとゝいふ。貝田町の入口、仙台境、石大仏を過て、 越王堂 佐藤兄弟か妻女の木像 あり。

岩沼にやとる。行末のまた遠けれは、といひて 武隈の松 を夜るみにまかる。

   夏痩や更たけくまの松の月

あけの日笠島へは二里余馬ふたつかりてゆく。かの道祖神の社にぬかつく。手ことにいそけ、とよみし折からや。

神心なきて田植の笠しまや
    北

実方の社 は十町計ゆき、塩手村茂右衛門といふ百姓の藪の内なり。苔壁蜘糸のみ。地霊たれか信せん。小祠扉落て細雨なをひさし。

   ぬれて飛觜や青田の友すゝめ

増田へすくに出る。一里余中田長町を過て仙台につく。

   時鳥せに仙台の名とり川

三浦拾意といふものをたつぬ。折から他行して国府町にとまる。あけの日拾意きたりて釈迦堂、 天神 、つゝしか岡、 木の下薬師 、みやき野は萩しけり、玉田、横野を左に見る。城山は 青羽山 にかゝやき、 亀か岡の社 たてりと思ふ。大名小路をみなし帰る。二三日とまり、連中七八輩会。十三日、原町迄皆々送る。指杏、竹影ゆたんの肩をたすけて名所をおそゆ。

蚊遣せよ庵もとたゝ(えカ)のはした酒
    北

おくの細道 をみやり、十符の菅一株を家つとゝも折。

   たそようと手袋はつす菅の音

道の上は元の松山、それより引かへし、市川村中より南へ四五町行は 壺のいしふみ 。こゝにて東人の銘に昔を思ひ、ふるき瓦を得たり。潭北、几上の小硯にと懐にして、

甍やふれ蝸牛の角のなみた哉
    北

野田玉川 、小橋にわつかの流れをとめてふるゝ石有。紅葉山の下をこそ人もかよはぬおもはくの橋といふ。 末の松山 は曹洞宗の蘭若の後の山なり則末松山とよふ。 沖の井 、松か浦島を右に見て塩かま鈴木氏かもとにやとる。

六社明神 に詣す。宮裏石壇の結構美を尽せり。泉ノ三郎寄進の鉄灯籠あり。又鉄の塩やき竈四ツあり。そのかみ此地にて塩を焼せ給ふといふ。今は塩浜しほやきなし。この竈の水を年々一度かゆれとも古代の水一杓つゝ残るゆへに万古不易の水とうとむへし。

塩かまは揚名の介風かほる

藻のひかり山もやとはす千賀の月
    北

松島へ舟にてわったる。千鳥なといへとその数もしれす。みな生ならひ波光をあらふ。東に 五大堂 、中は 瑞岩の精舎 につゝき、甍ならひたり。西に大主の茶屋細道につきて、是なん 雄島 、橋あり、塔あり、碑あまた洞中にあり。天下の壮観言語を絶するの風景なり。

   松島や唖にたゝよふ夏の雲

五大堂


こゝに二日とゝまり島めくりし、又は島へあかりて浦々の眺望かきりなし。

それより高木塩浜を右になし、大松沢野地あり。馬蹄あやうし。三本木古河にとまる。なを行々て宮野一の関にとまりさためて平泉へ行。 高館 のあと、義経の影堂、杉山の中にあり。田中に亀井かしるしの松、弁慶堂、桜有。衣川前になかれ、立往生の跡をとゝむ。

流れぬや一木すくるゝ影茂み
    北

鐘楼跡は見えす。如来堂、弁天祠、左に 光堂 、東むき、秀衡三代の石の棺を納む。七宝荘厳の巻柱ふりたり。宝物色々しるすにいとまなし。後に経堂、白山宮、姥杉一本、十囲はかり、大さ牛をかくす。円隆寺、嘉祥寺、泉水のかた計残り、西に和泉が城、月山見ゆ。泰衡が館のあとは金鶏山の麓に茫々たり。

   英雄の跡植のこせ夕早苗

達谷か窟 へこす。二里余、西光寺といへり。住僧かたりて云、平城天皇のころ、悪露王・赤頭太郎・高丸、三人の姦賊勅命にそむく。田村丸これを征伐せしむ。窟の高さ二十間、奥へ四十間余有。このうちに棧造りの一堂を建て、慈覚大師が百八躰の毘娑門の像を安置す。岩上に源義家弓筈を以て大日如来の一像、方五間にあまる容貌奇偉たり。むかふに蒲地天女、霧山禅定たり。こゝに昼やすみし、椎の葉にもり、酒のむ。

葛の花魔仏一如の扉かな

風の谺いはて夏花の匂ひ哉
    北

達谷窟


南部道見やり、尿戸前の関へ行。出羽へこす道あり。嶮難かたかたふやうの所かたく行ましき道なり。 小黒崎美豆の小島 を見のこし、一の関より又古河迄とつてかへし、軽井沢通といふ。これより行程二十里計ゆく。番所あり。宿のあるしことはりて過る。うるし沢、つゝらこ水石ノ逸異さなからうるはし。

鮎飛て似たりやおくの奥の木曽

葛籠子の荒神のりそ車ゆり
    北

上の畑より寺町へつく。雨しきりにしてこの所の問屋網谷久右衛門といふもとにやすむ。この人六十六部の斗藪のものをとめて飢寒をふせき、又は病痾をいやしてやさしき男なり。雨をかことに一夜はせひと留られけれと、行さきも遙なれはと申せは、酒すゝめ馬二疋迄申つけて延沢迄送らす。又縁もあらはと一紙をとゝむ。

雨五月たれて六部の報謝宿

黄金の出羽へ延たり早苗雨
    北

尾花沢 鈴木清風 といふものは旅の哀もしり我宿にしてねまる、といひしもあれはと尋しに、今は俳諧をやめ、又江戸よりの一封もしる人さたかならす、とむけなる返事にて、一宿をゆるさゝりけり。雨盆をくつかへし、空は墨を摺たるやうなるに、馬もあらはこそ、ゆたんに合羽おもきか上にからくして諾沢にとまる。



本庄廓をむかへ屋をならへて市声にきはし。平沢斎藤市兵衛にえ昼休し、心つけて汐こし金又左衛へ状添らる。芹田、金ノ浦を過てしおこしに足をやすむ。

四日金氏隠居仁助しほらしき人也。ともなひて 蚶満寺 祖敬和尚に謁す。袖掛地蔵高島より金氏小舟二そうをそうそき棹をめくらす。象潟より汐こしをのそみ見るに、島嶼九十九幅の山水をひらき断続の痕跡まことの妙手なり。午の刻腰たけにいたる。絵松島に幕をはり、行厨をひらきもてなし有。鳥海山は南にうけ湖面に容つくりす。温風酒をよひ波文綾のことし。むかし芭蕉翁一見のとき、

   きさかたの雨や西施かねふの花

とありし花の字をとりて韻をつく。

   潺 湲 水 漲 沙   象 潟 出 横 斜

   樹 似 含 秋 怨   感 情 二 月 花

萩さくや世は腰たけの蜆とり

   島は一瓶の花形のことし

胴しめに秋の花それ蚶満寺

象潟や秋の呼吸の鐘わたる
    北

   男潟聖廟

姥貝も色かへぬ葉のはしらかな

能因島 を経て寺にかへる。庭下に西行桜岸陰にのそむ。この枝を杖にからし堂後に二本あり。金氏をしてこれを乞は一本を給ふ。木の理九節にまさり、月を踏雲を穿の一器、風雅のすしたうとく覚え、求杖論一章をなけぬ。此集には例のもらしつ。けにや松島は風姿形勝京華に似たり、きさかたは雲栖光をかくして仙跡のことし。里はなれ原を過て関といふ在所、家ゐ三十軒はかり前に竹垣しわたし、馬子かいふ、これいにしへのむやむやの関跡なり。又小砂川三里、この海はた奇石怪岩目を驚かす。御崎山といふ。女鹿へ一里、難所、人歩やとひてこす。飛弾の工の建たる堂海にむかふ。峠に慈覚大師の影堂こゝに息をやすめ、茶なとたうへて行。福浦をゆけはあつみ山むかふに見ゆ。磯のあらあらを七里行て、申の時はかりに坂田かゝ屋与助亭にやとる。あけの日浜を下りて袖の浦を見る。風致絶勝のとり合、立田姫の手も及ましう。

鳥海の秋や裁ぬふ袖のうら

打晴ぬやんまかへせは袖の浦
    北

こゝを立て新堀狩川、昼過より雨ふりて羽黒の手向呂笳亭にいたる。けふや道者夥しき中に待うけ、梨水もきたり。呂笳は 南谷 より人をこし、あすは参るへきなとこまやかに聞えたり。女の参詣はこれ迄にてなを往来しけし。

下紅葉かりにも鬼の峠かな
    北

あくれは七月七日、南枝きたりて案内して 権現のみやしろ にまいる。

かけごしに見よ鵲の羽くろ山

眉半に暑さやをくる上羽黒
    北

南谷暮嶺山紫雲寺道者部屋数十軒

   ひこほしの局分明くれの嶺

秡川にて

糸口のとけて願ひや滝の音

立琴に風やすめてははらひ川
    北

荒沢経堂院主東水子をたつねこゝにやとる。心よきもてなしとも。

竜灯の何かな一種星むかへ

手湯桶に臑やよこたふ天河
    北

女人禁制の札、未入峯の廻り道見ゆ

未入峰の腰を廻るや蔦の帯
    北

正穏院青渭へも一日まいりてかたる。

   秋峯や手に入しほの梢には

十五日天清、東水、呂笳先達として 月山 へのほる。この山諸山に甲たり。山谷草樹凡ならす、他にこと也。落日に来迎を拝す。稀々なる事のよし、いとゝ心すミて石室にとまる。山上の残雪ところところにありて肌粟をたゝす。妙浄坊青岫とふらひたまひ、あすの先達を約す。

月雪の中元にして山きよし

念仏に出てうつくしや峯の月
    北

十六日、 湯殿 に参る。日ほからかなり。

合掌に人は朝日のおとりかな

滑川の裏や銭道きりきりす
    北

この山のありさま人にいふへきにあらす、哀にたうとし。来由旧跡「三山雅集」に出たり。 志津 へ入りて砂小路にとまる。 本道寺 を経て八鍬村、簔をつくる所、

   簔くむやきりこ灯籠の軒ならひ

山形より上の山にて手形わたし、湯の原、わたり瀬、下戸沢、村木、岩飛不動、小坂をこえ、又桑折へ出。 馬耳 亭に二日草臥をやすめ、郡山より守山へ出。御坂にかゝり中寺、綿田、合戸を過て

岩城平につく。沾梅へ案内しけれは、いかに遲かりつると長屋わたりて足をとゝむ。

露沾 公たひたひ佳席あり。湯本三箱宮

箱石にくたすか霧の湯の匂ヒ

月をのせて引湯あまたに酔賞し
    北

泉願成寺 徳尼開基秀衡妹也

鴫の跡しろし白水畧縁起
    北

秋清しまことの筋を水の骨

野田玉川

求めみむ野田村あつて釣道具

水晶の男つくるや水の月
    北

玉川に袷をほそめ外北面
   沾荷

尾花にも塵おく玉や野渡の鷺
   沾梅

勿来関 にて

はし鷹の名こそこそくる波の音
    荷

関の秋粟野にゆかし足の裏
    梅

九面や磯の入羽の尾こし吹
    北

   花になこその御意はなし、とは 宗因 なり

関の謎折ふし紅葉今以

小名の浜にて、

海山を小名とはいはし鰯網

椎の実や枝浜かけて小名の風
    北

八月十五日は八幡宮参祀棧敷をかまへ流鏑馬あり。夜は清亭の月見詩哥誹諧ことしけきにもらしつ。曲り松御茶屋の一興とゝめ有けれと馬に鞭うつ。これより又白川に出、 関山の観音境の明神 、からす山へより、中川に逍遥して久下田乕睡のかたに四五日あそひ、結城へ又たち寄る。百六十日余の旅中無難にかへり、是はめてたしとかれこれかたり合せ、こゝに足やすめす。たとへは都へゆく人の逢坂をこゆるにひとし。重陽吟、

   ふりかへし菊にけふしも大津賽

こゝにて潭北としはらく袂をわかち、来月江府にと契り、堺凍泉、分峯子にあふてとゝまる。

九月十三日江戸につく。

   状箱のふた夜の月を具合かな

奥筋よりの文もとゝけ、人々もうとき顔色又あたらし。長途ところところの勝迹わすれぬさきにみしかき筆をもて前後をいはすみたりにしるし侍る。

   餞 別 句々到来次第

田も畷も懐きよしこゝろてん
 巴人

   秋の二見を思ひて

遠く近し松島河原ほとゝきす
 貞佐

江戸を出秋かせそふく麦畠
 蓮之

三符に寐る人や松島二畳釣
 秋色

   国々にも下乗したまふよし、居士もとよ
   りわつらはす。

鎧摺尾さきてふれさ蠅はらひ
 湖十

聞ほしていつれあやめそ花かつみ
  園女

駒とりを見て禅摺の月も又
 白雲

   旅中所々餞別

紅の出羽かるきを以て廻るかな
 結城
 晋我

花かつみ火燧や旅のみたれ箱
  
  我尚

渡る雁又大木戸を吹とちよ
 桑折
  馬耳

   たのもの末つかたあつまへゆく人に又
   来る春を契りて、

関の秋ふたゝひこえて鏡海苔
 岩城
  露沾

菜引間や黒髪山のかまへやう
  
 沾荷

長月や無異に入間の鶴の脛
  
 沾梅

   長途をかへりて無事に潭子を見るによろ
   こひにたへさるはこゝろの暮をてらして
   余に送らる。

古郷の子をかけて見よ我もかう
潭北母


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