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私の旅日記
熊野那智大社
〜青岸渡寺〜
那智の滝
から熊野那智大社へ。
坂道に三股が咲いていた。
三重塔
平安末期に建立されたが相つぐ戦火に焼失、去る47年全国よりの浄財によって再建、飛瀧権現の本地仏千手観音を三層に祀る。
平清盛公熊野那智に参詣
平家の宰相清盛公は、熊野那智に対する信仰深く、とりわけ如意輪観世音の霊力を願い時に永暦元年(1163年)後白河法皇を那智に迎え初度参拝の折、その行列の伴として一族をひきつれ共に参詣し、如意輪の滝と云われる二の滝に於いて開運招福を願ったということである。
花山上皇西国順礼の旅
花山上皇(968〜1008)は在位わずかにして一條天皇に御譲位なされ深く観音力を信じられ那智の山に籠って修行せられること3ヶ年、更に広く大慈大悲を求めて那智観音を第1番として西国三十三ヶ所へ、当山の弁阿上人等を先達として巡礼の旅に出られた。世に花山法皇を西国巡礼の祖とあがめ今なおその心の旅につづけられているのである。
那智山青岸渡寺
西国霊場第1番札所
天台宗
那智山青岸渡寺
補陀洛や岸うつ波は三熊野の那智の御山にひゞく滝津瀬
当山は仁徳帝の頃(313−319)、印度より裸形上人が熊野の浦に漂着、現在の堂の地に庵を結んだのに始まると伝えられている。その後、推古帝(593−628)の時大和より生仏上人が来山し、玉椿の大木をもって、現在の本尊(御丈約4m)を彫り、裸形上人感得の観世音菩薩を胸仏として納め安置す。のち推古帝の勅願寺となり、那智霊場の中心として熊野信仰を育くんできた。従って御本尊如意輪観世音菩薩の霊験を受けんとして、日夜礼拝修行する者その数を知らず、又、天皇上皇の尊崇も深く、殊に平安時代、人皇六十五代花山上皇が滝の上の山中に庵を造り、3ヶ年ご修行の後、当山より西国三十三ヶ所観音霊場巡拝の旅に出られた。当時より長きに亘り巡拝の寺として親しまれている。当山は、古くより那智山如意輪堂と称していたが明治の神仏分離によってその形態が変り以来青岸渡寺と称するようになった。現在の建物は天正18年、豊臣秀吉公が、発願再建されたもので桃山時代様式の建物として、南紀唯一の重要文化財である。
本堂の左手に
秋櫻子
と吾亦紅の連袂句碑があった。
滝落ちて群青世界とどろけり
秋櫻子
きらきらとまだ見ゆ雁の別れかな
吾亦紅
吾亦紅は本名米澤忠雄。明治34年(1901年)3月20日、長崎市に生まる。九州帝国大学工学部造船科卒業。馬酔木同人。俳誌『燕巣』主宰。
昭和61年(1986年)7月3日、歿。享年85歳。
昭和61年(1986年)8月24日、馬酔木燕巣会建立。
『秋桜子句碑順礼』(久野治著)によれば98番目の句碑である。
昭和31年(1956年)5月1日、
水原秋桜子
は再び青岸渡寺を訪れている。
青岸渡寺
行春や杉生くゆらす大香炉
『玄魚』
熊野那智大社
御案内
こちらが熊野那智大社でございます。全国約4千余社の熊野神社のご本社でもあります。
上皇・法皇方の熊野御幸は百十数度を数え、その後世に「蟻の熊野詣」という様に全国からの熊野詣が盛んになり、伊勢に7度、熊野に3度という諺もうまれました。
そもそも那智山の信仰の始まりは、神倭磐余彦命が那智の瀧を神として祀られたことに始まり、仁徳天皇の御代にここにお社をお遷ししたのであります。
御祭神は熊野13神(含む、飛瀧神)であり、御主神は熊野夫須美大神と申し、伊弉冉神(いざなみのかみ)でございます。
修験道の霊場となってからは、「日本第一大霊験所・根本熊野三所権現」と崇め、熊野信仰の御本社としての篤い信仰が寄せられ、那智山熊野権現と申しました。
御祭神の夫須美神は「むすび」=「結」で願望成就の信仰であり、一時期「結宮」とも申しましたが、後に、官幣社となり、今日では「熊野那智大社」と称し、熊野本宮大社・熊野速玉大社と共に「熊野三山」と申します。
御例祭は7月14日です。
毎月の1日・14日・18日と祭日には祭典を斎行します。
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