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私の旅日記2010年

天童公園文学の森〜碑巡り〜
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 天童市のシンボル舞鶴山(天童公園)の西に「天童公園文学の森」がある。


 平成15年(2003年)、市制施行45周年記念事業として「天童公園文学の森」がスタートした。

2003年10月26日、イザベラ・バードの文学碑を建立。

2005年10月9日、田山花袋の文学碑を建立。



「あわれわが稚き頃より母にも聞き、書にも読みて夢寐にもすがたを思わざる事なかりし懐かしき月山の姿は、さながら雲晴れ、気澄みわたる地平線の上に美しき月輪がその三分の一をあらわしたるものの如く、極めて面白く、わが眼前にあらわれ出でて見ゆるにあらずや。

 夕日影暮れなんとする大空に月の山こそ顕はれにけれ

 尤もわが心を動かしたるは名も無き高擶村一帯の平地なりき。母君はかつて此処に青春の花のごとき時を過ごし給ひしと思えば、平凡なる里川も何の面白味もなき平原もみな我が心には一種の新しき思いを誘う科とならぬはなかりき。」

『続南船北馬』より抜粋

  田山花袋 の母(てつ)は高擶に生まれた。てつが25歳頃までの青春の日々を高擶で過ごしたことから、「生まれ育った故郷である高擶の風物や子供の頃の遊びを懐かしく思い出し、幼い花袋によく語って聞かせた。」と言われています。

 花袋の作品『続南船北馬』では、明治27年、花袋24裁のときに高擶を訪れることを目的に東北方面を旅して、月山を眺めた感想が述べられています。

2008年11月1日、志賀直哉の文学碑を建立。


 話が決まると私は急に待ち遠しくなった。母となるべき人は若かった。そして写真では亡くなった母より遙かに美しかった。

 ──実母を失った当時は私は毎日泣いていた。

 ──後年義太夫で「泣いてばっかりいたわいな」という文句を聴き当時の自分を憶いだしたほどによく泣いた。とにかく、生まれて初めて起こった「取りかえしのつかぬ事」だったのである。よく湯で祖母と二人で泣いた。

 しかし私は百日過ぎない内にもう新しい母を心から待ち焦がれるようになっていた。

「母の死と新しい母」より抜粋

 天童と 志賀直哉 とのかかわり

 直哉が12歳のとき、実母銀が亡くなり、父直温(なおはる)は23歳の浩(こう)と再婚した。浩は明治5年、天童織田藩士高橋元次の長女として、藩の陣屋があった田鶴町で生まれた。

 志賀家は相馬中村藩士であった。天童藩二代藩主織田信学(のぶみち)が相馬藩より妻を迎えたため、相馬藩とは縁戚関係があり三代織田信敏が仲立ちした。

 浩の育ての親となり直哉と父との長い確執を解くために心を砕き、最後に親子を和解させる大きな陰の力となった。

愛宕神社の裏参道 へ。

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