このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2013年

景徳院〜武田勝頼〜
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甲州市大和町田野の景徳院に行ってみた。


景徳院総門


 県指定史跡
景徳院境内

 本史跡は、天正10年3月11日徳川・織田の連合軍に攻められた武田勝頼一族郎党約50人が自害した田野の旧地である。

 武田勝頼は、天正元年父信玄の跡をついで武田氏の当主となった。宿敵織田信長・徳川家康と長篠において戦ったが利あらず敗退した。その後、新府城を築き再挙を計ったが、天正10年3月再度織田・徳川の軍に侵攻され、小山田氏の岩殿城に走ったがそむかれたので、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき、主従はここに自害して果てたのである。

 その後、家康入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため、僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。現在本境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。

山梨県教育委員会

辞世の歌碑


黒髪の乱れたる世そはてしなき思ひに消ゆる露の玉の緒
   北条夫人

おほろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端
   勝頼公

仇に見よ誰も嵐の桜花咲きちるほとの春の夜の夢
   信勝公

甲将殿


「勝頼夫人辞世」の歌碑


黒髪の乱れたる世そはてしなき思ひに消ゆる露の玉の緒

景徳院山門


県指定有形文化財。

 県指定史跡
景徳院境内

 本史跡は武田家最後の武将勝頼公及び同夫人、子信勝並びに将卒ら約50名が自害した地である。

 勝頼は 武田信玄 の第4子として天文15年(1546年)に生まれた。母は諏訪頼重の女である。天正元年28歳で甲斐国守となった。父信玄の志を継ぎ天下統一の業を進めたが、天正3年織田信長・徳川家康の軍と長篠に戦い大敗した。以来勢力回復のための進攻作戦で、数年の間敵を国内に入れなかったが、ついに天正10年(1582年)織田・徳川連合軍の国内侵略を許した。

 勝頼は新府で前後策を講じ、小山田信茂の意見をもちい、同年3月3日居城を自らの手で焼き郡内の岩殿城に向かったが、信茂の叛にあい、やむなく 駒飼 から天目山に入ろうとしてならず、力つき主従田野において最期をとげた。時に天正10年3月11日であった。

 その後家康は甲斐に入国、勝頼ら将士の菩提をとむらうため、勝頼の忠臣小宮山内膳友晴の弟、広厳院第七世拈橋(ねんきょう)を開山として田野寺を建立した。それが今の景徳院である。現甲将殿(影殿)の裏に墓地を設け、勝頼主従を手厚く葬った。

 境内には世子信勝に「環甲」(かんこう)の礼を行った場所といわれる「旗竪ての松」、勝頼親子が自害された所と伝えられる「生害石」などがあり、甲将殿には主従の牌子が祀られている。

山梨県教育委員会
大和村教育委員会

天童山景徳院


曹洞宗 の寺である。

2005年11月1日、大和村は塩山市、勝沼町と合併して甲州市となった。

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