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東海道新幹線、100系X編成「最後の晩餐」



その日(10/2)私が新大阪に着いたのは18:30頃であった。地下鉄の階段を降りていると隣のカップルの会話が聞こえてくる。「あたし、お弁当3つ位食べちゃおか?」・・・おいおい、今日がいったい何の日だか知ってんのかい?とツッコミを入れたくなる衝動を押さえ、地下鉄の改札を抜ける。正面にあるTisの窓口には長蛇の列ができていた。後で見ると上の窓口(JR東海)は比較的すいているのだから、そっちに行けばいいのに・・・と思いつつ、やはり「場所」というのは大事なのねぇとも思う次第。10分前に改札をくぐり、ホームに上がる。やがて定刻に「ひかり126号」が入ってくる。最後の晩餐となるこの列車の編成番号はいくつかしらん?皆の視線が乗務員扉を追う・・・え!X1ぃぃぃぃぃ!!な、な、なんと100系の試作編成「X1編成」がやってきた!お召列車にも充当されるなど東海道新幹線の顔として走り続けた編成である。数々の新機軸を盛り込んだ2階建て車体構造と、洗練されたデザインを昭和60年3月の公式試運転の際初めて東京駅で見て以来「アンチ新幹線野郎」であった私に強烈な衝撃を与えた編成でもある。それがまるで私に会いに来てくれたかの如く、目の前に入ってきた。肝心の8号車には業務用ドアしかないため、感激もそこそこに9号車のドアから乗り込む。8号車の階段を上がると、カーブドガラスに囲まれた、開放感あふれる空間が広がる。世界一高速で快適な空間・・・それが「食堂車」なのである。

新大阪発車時点では窓際の席が埋まり、鉄ちゃんの姿もチラホラと見られる。鳥飼車庫を通過する頃、神戸のROKUさんより電話がある。「乗りたかったのに、残業なんだぐもぉ」との電話。これはなんとも悔しかろう。今日は他にも2名ほど「仕事で来れないぃ(泣)」という電話がかかってきており、せめて彼らの分まで楽しませて?頂くことにしよう。今日の2階クルーは男性の食堂長と女性の会計さんの2名体制。全盛期はこの2人の元に部下が3〜4人ついており、入社時期により1級さんから3級さんにわかれていた・・・なんて時代が信じられない程の忙しさである。落ち着いた頃に私もオーダーを入れる事にした。オーダーを終えると読者の少年がやってきた・・・なんて書くとまるでT先生みたい(笑)だが、たとえ新大阪→京都間だけでも乗りにきた根性が気に入ったので、本日ラスト1枚となった名詞を渡す。車窓にはすでに梅小路の構内が広がっており、少年は慌てて降りる支度を始めていた。

相方のO氏を迎え、京都を出ると前菜が運ばれてきた。コースはメインとティーのみだったので、前菜として定番のビール(キリン一番搾り)とハムサラダをオーダーした次第。かつての特別急行「つばめ]や「ひばり」の食堂車では「おつまみ(同好会ではない)」としてハムサラダをとるのが定番で、「ひばり」ではキリンビールしか飲まないため「キリンのおじさん」と呼ばれる人が定番で食べていた由。「大人になったらいつかビール片手に食べてやる!」と思っていたのだが、昼行列車の食堂車はどんどんなくなってしまい、その機会は極めて限られてしまった。だからこそ今日はこの定番メニューで「最後の晩餐」を楽しませて頂こう・・・なんて会話をしながら杯を傾けると、いつのまにか「名古屋、あと5キロ」の表示。先ほどの少年が降りた席に移動(進行左側、入り口すぐのテーブル)すると、知り合いが2人も乗ってきた。いつもの調子で会話していると、同好の士よりお声がかかる。いつしか7人の大部隊?となった。食堂バイト、JR社員、清掃作業員、添乗員等々「日々旅に生き、旅を住処と(by松尾芭蕉)」した人々が、それぞれの思い出を胸に集合した。各自思い入れのあるメインディッシュとビールをオーダーし、皆で乾杯。私は5才の時初めて35型ビュフェ(イスが設置されていた)で食べて以来の定番メニューであるハンバーグのコースとスープをオーダー。さらにビールをもう1本頂く。すると・・・。

食堂長「銘柄が変わってしまいますが、よろしいですか?」
私「かまいませんが、何です?」
食堂長「サッポロです」
私「あ、大歓迎です♪」

昔の食堂車を彷彿とさせてくれる、この心づかい!!
最後の晩餐にふさわしい気持ちを胸に、私達は杯を重ねた・・・。

新幹線の食堂車は昭和50年の博多開業時より登場した。それまではビュフェが唯一の供食設備であったが、7時間近い長時間運転になることと既存ブルートレインにて営業していた食堂業者各社の受け皿となるべく連結された。これに先立ち961系試作電車に食堂車が連結され、内装や設備の検討を行っていたが、ほぼ961系そのままの内装で0系に連結された。食堂業者もブルートレインから移行してきた4社(日本食堂、ビュフェとうきょう、帝国ホテル、都ホテル)が妍を競い、世界で最も早く、最も快適な空間が用意されたのである。客車屋の私にとって、好きな電車と呼べるのは3系式しかない。国鉄の普通(新快速)列車用電車として初めて吊革を全廃し、転換クロスシートに特急用窓框、蛍光燈グローブまで装備して華々しく登場した117系。トップキャビンにセミ・コンパートメント、ビュフェまでもを装備し、担当がそのデザインに感動したことから栄光の「つばめ」を襲名させたという787系。そしてこの新幹線100系である。いずれも高速運転はあまり重視されていないが、旅客サービスを最優先においた、世界に誇れる車両たちである・・・なんて事は百も承知のメンバーばかり、会話の内容はやれX(JR東海の食堂車つき100系で、今乗ってる編成のこと)がどーの、V(JR西日本の100系「グランドひかり」のこと)がどーの、NTBM(日本食堂、ビュフェとうきょう、帝国ホテル、都ホテルのイニシャルをとったもので、ナプキンやおしぼり等共通で使うものに表記されていたが現在は日本食堂系のジェイダイナー東海のみの営業なので使われていない)がどーのと、いちいち書いていたら解説だけで半日かかりそうな専門用語が飛び交い、業界人の同窓会みたいな状態となっていた(笑)

そんな彼らならではのシーンに、小田原駅の通過がある。X編成は明日より「こだま」限定となってしまうので、この食堂車から通過シーンを見るのはこれが最後(ひかり126号は新横浜停車)となる。そんな「歴史的瞬間」に、手元のコーヒーや紅茶で乾杯。もうここから通過シーンを見る事ができないなんて・・・これを書いている今ですら信じられない。ここで「壁画」をバックに記念撮影となる。「壁画」とは食堂車の壁にエッチングで描かれた絵のことで、日本の鉄道開業からこのX1編成迄、国鉄嘱託であった黒岩保美画伯の手により東海道を駆け抜けた歴代の「鉄路の名優(車両)」たちが描かれている。1号機関車(新橋〜横浜だって立派に東海道です)からC51の牽く「燕」、EF58や151系の「つばめ」そして0系・・・初めてここで食事をした時、それぞれの列車に賭けた「男のロマン」を想うに、熱いものがこみあげてきたことがあった。列車ごとの伝説を書いていては本が1冊書けてしまうので省略するが(ご希望の方はイカ*ス出版へご要望を?)面白いのはこのX1編成以降100系は大窓化されたため、壁画の絵柄もちゃんと大窓に描き直されており、狭窓の絵が描かれているのはこのX1編成だけという事になる。その意味からも貴重なシーンであり、かわるがわる記念撮影を行った。そのうちの一人いわく「せっかくだからグレー系の色にでもして500系のデッキとかに描けばいいのにぃ」私も同感なのだが、残念ながら黒岩画伯は今春、この世を去ってしまった・・・。 そんな思いを乗せて、列車は新横浜を通過。ここでついに食堂営業は終了となる。各自勘定をすませ、最後のレシートを手にウェイティングエリアへ出る。レシートには今日の日付と「00126」そう、ひかり126号の列車番号が印字されている。かつて伝票付属の領収書に列車番号を書き込んでくれた時代の「忘れ形見」である。品川を過ぎ、列車は定刻通り東京到着。夢のようなひとときであったが、到着後すぐに什器やレジスターが降ろされ、この列車が最後の営業であったことを実感させられてしまう。一同はいずれV編成「最後の晩餐」にも集まる事を誓い、X1編成のテールランプを見送った・・・。

#この文は100系X1編成に敬意を表し、1行40文字×「100行」で書きました。

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