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白虎隊
ここを見ている方はそうではないと思いますが、白虎隊に対する世間一般の認識を私は好ましいとは思っていません。
具体的に何かと言うと、
一、白虎隊を会津武士道の象徴のように取上げること。
二、白虎隊=士中二番隊、白虎隊=士中二番隊自刃十九士であるかのような認識。
の二点です。
まず簡単にと言うと少々語弊がありますが、まぁあのような形で切腹するのが本来の会津武士道の趣旨に見合うのかという事です。
まず、武士たるもの君公を守るのが一番の務めでありましょう。
安否がわからぬのならば、それを確かめる事が最重要であります。
土津公は殉死の禁令を出し、家康公もまた「殉死は犬死」と申しております。
法令を解釈するときには、その趣旨に思いをはせねばなりません。
この法令の趣旨は死すべき時に死に、死すべき必要の無い時には簡単に命を捨てるなと言う事ではないでしょうか。
武士が武士として死する場所は、交戦中、或いは命と引き換えに他の将兵、または主君を救う場合なのではないでしょうか。
城の周りが焼けているのは遮蔽物をなくす為。
これも籠城戦に於いては守備側に古来より伝わる当然の戦法であります。
日新館で教育を受けた彼らがそれを知らなかったとも思えません。
何故、このように死に急いでしまったのでしょうか。
また、二本松や長岡藩兵を見てどう思ったのか?
本来、二本松や長岡は薩長の標的ではありませんでした。
会津と無関係だったにも関わらず会津を助けてくれたのです。
しかも、自分の城が落城しているにも関わらず、降伏せずに会津まで来て会津の為に戦ってくれています。
彼らはこれを見てどう思ったのでしょうか?
最終的には会津より早く降伏してしまいましたが、会津が落ちれば本来無関係であるにも関わらず会津に救いの手を差し伸べてくれた仙台や米沢が掃討の対象になるわけです。
そして、私が本来の会津武士道の趣旨に反するのではないかと考えるようになったきっかけは井深主水の存在です。
会津若松市史第6巻6頁に「中間管理職の悲哀」と言うタイトルでコラムがありますので、お持ちの方はそちらを読んでいただければと思います。
井深主水は当時の会津藩の財政の責任者でした。
この頃会津藩の財政は逼迫し、上役からの要望と板挟み、ついに手段も尽き果て、彼は事後の処理の策等の書置きを残して失踪しました。
その書置きにはこう記されています。
「色々今まで苦心努力を重ねてきたが遂に手段も尽きてしまった。
数年来、他人の誹謗中傷もいとわず、藩のため一身を投げ打ってきました。
帳簿を調べてもらえばわかることだが、この間一銭たりとも私はしていません。
自殺も考えたが死ねば万分の一のにも報いる道がなくなる。」
24年後、井深主水の消息が掴めました。
彼は会津藩への帰参を許され郡奉行同格、新潟御用、町奉行などに重用されました。
これが土津公の遺訓や土津公が制定した法令とも合致した本来の会津武士の在り方ではなかったのかと私は思うわけであります。
16,7歳の少年が極限状況の中で選んだ選択を非難するつもりもありませんし、立派に戦い信念を持って命を全うしたとも思います。
ただ、今述べたような事を全て彼らは見聞きしていたはず、また退却の途中でであった大人の藩士に早まった行動を取るべきではないとも諭されています。
何故彼らはこの段階で死を選んでしまったのでしょうか。
安穏とした現代に生きる私が批評するのもおこがましい行為であると重々感じておりますが、
あれを会津武士道の象徴的な行為として扱うのはどうにも腑に落ちない部分が有ります。
次に二点目に付いてですが、士中二番隊は白虎隊の中の一部隊であり士中隊は西軍若松城下突入と言う最終局面になって実戦投入された部隊です。
白虎隊は総勢300名ほど、寄合隊は士中隊に先立つ事1ヶ月ほど前から出陣、越後口の前線で実戦投入され戦死者も出しております。
白虎隊=士中二番隊、白虎隊=士中二番隊の自刃十九士という図式が出来上がっているのは、奮戦した他の隊士があまりにも不憫でならないように感じられます。
そう言った所で、会津の事を知らない方には非常にわかりにくい話ですし、ここで書いた事自体も私の意図した通り伝わっているのかどうかいまいち自信がありません。
端的にいいますと、私自身十九士の切腹と言う事に関しては非常に心を痛めております。
しかし、あれを会津武士道の象徴として捉えるのはどうなのだろうかと疑問に感じている自分もおります。
また、十九士以外の白虎隊士にも光を当てて欲しいと言う思いも強く感じております。
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