このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

保渡田 生原


群馬県高崎市保渡田、生原地区は保科家、会津藩とは非常にかかわりの深い土地です。
長野氏滅亡後この地を統治していたのが、武田四名臣の一人内藤修理亮昌豊。
そしてその後を継いだのが、保科正俊の次男で内藤昌豊の養子となった内藤大和守昌月です。
内藤昌月は保科家の出と言うだけではなく、会津藩家老の内藤家の祖に当たります。

織田信忠による高遠城攻撃前から、本能寺の変後保科正直による高遠城奪還までの間の保科家の人々の正確な足取りはわかっていません。
身を寄せた可能性の高い場所は3つ。
1つは正直の妹の嫁ぎ先であった松本の小日向家、もう1つは正光の妻の実家であった上田の真田家、そしてこの保渡田です。
正確な寄留先はわかっていませんが、この保渡田は高遠奪還戦において重要な役割を果たしています。
当時、兵力を持たなかった保科正直は実弟の内藤昌月から500の兵力と戦闘指揮者を借りて高遠奪還戦を行ったのです。
つまり高遠城を奪還するにおいて主力部隊として最も活躍したのがこの保渡田の人達であり、
保渡田の人達の協力なくしては保科家は大名には成り得なかったのです。
考え方によっては会津藩の原点とも言うべき場所になります。

この会津藩の原点とも言うべき土地を一度歩いてみたかったので、2007年1月6日に訪れました。
高崎の市街地からバスに乗って井出十字路のバス停で下車しました。
地図で示すとだいたい この辺り です。



名前に惹かれて近くにあった 大円寺 というお寺に立ち寄ってみました。
何故名前に惹かれたかと言うと、飯野藩保科家の菩提寺が杉並区にある大円寺という同名のお寺だったからです。
保科家、内藤家と何か関係があるのかとも思ったのですが、お寺の方に伺ったところ全く関係がないとのことでした。
ただ予想外の収穫があり、こちらのお寺は長野業盛のお墓を管理しているとのことで、 長野業盛のお墓の場所を教えていただけました。
長野家滅亡時に長野家の菩提寺が引取りを拒否して、こちらのお寺の関係者に長野業盛の竹馬の友がいたらしく、
こちらのお寺で引き取ることになったそうです。
こちらのお寺は江戸時代に現在地に移転したそうで、現在のお寺の場所から長野業盛の墓までは1キロ弱離れています。



長野業盛の墓です。
地図で示すとだいたい この辺り になります。
長野業盛は武田信玄を何度も撃退した名将長野業正の息子で、14歳の時に父の死により家督を継ぎ箕輪城主となりました。
彼自身も武田勢を何度か撃退しましたが、ついに力尽き箕輪城の落城と共に19歳の若さで亡くなっています。



長野業盛の墓の近くにある二子山古墳です。
この辺には古墳が沢山あります。
せっかくなので、古墳時代の事を扱っている かみつけの里博物館 にも立ち寄ってみました。



かみつけの里博物館の隣にある八幡塚古墳です。



この古墳は見学できるように整備されていて、古墳の上に登ったり、中に入ったりすることが出来ます。
初めて古墳の中に入りました。



かみつけの里博物館、八幡塚古墳から 500メートルほど離れた場所 に諏訪神社がありました。



この諏訪神社の獅子舞(三匹獅子)は高崎市の重要無形文化財に指定されています。
獅子の呼び方などの名称は異なりますが、その形態は会津の彼岸獅子に酷似していますね。



諏訪神社から少し北に行った所にある 西光寺



西光寺は薬師塚古墳の上に建っています。



内藤家の居城だった保渡田城の跡地です。
その事を示す案内板等も皆無でわかりにくいのですが、地図で見ると この辺り になります。
後ろに見えているのは天子塚古墳です。城の土塁として利用したのでしょうか。
この場所から高遠城奪還の為に500人の軍勢が出撃していったのかと思うと感慨深いものがあります。
大名家としての保科家の歴史はこの場所から始まったと言っても過言ではありません。



保渡田城の跡地から真っ直ぐ西に向かうと 西川橋 という橋がありました。
当時は保渡田城の防衛線として堀代わりに利用していたのでしょうか?
また、この上流には 乾橋 という名前の橋があり、保渡田城からの位置を基準に橋の名前を付けられているように感じられます。



西川橋を渡り北へ1キロほど行くと内藤家の菩提寺であった 善龍寺 があります。
山号こそ異なるものの会津の善龍寺と同名のお寺です。



門前には内藤塚と呼ばれる内藤修理亮昌豊と内藤大和守昌月の墓があります。



向かって右が内藤昌豊、左が昌月の墓です。



会津の善龍寺は保科正直が下総多胡の領主だった時に、
上野国松枝(今の群馬県安中市松井田)の補陀寺から広林と言う僧侶を招いて建立した寺です。
その後、保科家の転封に伴って、お供寺として高遠→最上→会津と移転してきました。
多胡では善龍寺、高遠では桂泉院、山形では長源寺、そして会津に移転した際に再び善龍寺に戻っています。

他方、高崎市生原の善龍寺は長野業正が孫の福田五郎左衛門に命じて、
会津の善龍寺と同じく松井田の補陀寺から僧侶を呼び寄せ創建された寺です。
寺の創建とは名目上のことで、実はこの地を防衛する為の砦でした。
実態は砦ですから、武田、長野両家の抗争で、この寺は焼失してしまいます。
戦後、長野家に代わりこの地を治めた内藤家の手によって再び松井田の補陀寺から僧侶を呼び寄せ再建し、内藤家の菩提寺となりました。
再建したのは昌豊とも昌月とも言われ、正確なところはわかっていません。
十年前後の隔たりがありますが、もし再建者が昌月であるとするならば、
同じような時期に多胡と生原で同じお寺から僧侶を招いて同じ名前の寺を兄弟で建立していることになり非常に興味深く感じます。
この事実を知って以来、何故会津内藤家の菩提寺が善龍寺ではなく、泰雲寺なのか疑問に思っていたのですが、
『会津の内藤一族』を読むと、泰雲寺は菩提寺として内藤家が土津公より直々に賜ったものだそうですね。
おそらく土津公は内藤家の上野での菩提寺が善龍寺だった事を御存知なかったのではないでしょうか?
もし御存知ならば会津でも善龍寺を菩提寺としてあてがったような気がします。
因みに会津、上野の両善龍寺、会津の泰雲寺はいずれも曹洞宗の寺です。
写真は高崎市生原の善龍寺の本堂です。



本堂の裏には福田五郎左衛門とその父親である長野吉業の墓があります。
向かって右が長野吉業、左が福田五郎左衛門の墓です。



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