このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

成願寺(中野坂上)


中野区本町2丁目、地下鉄中野坂上駅から300メートルほどの所に多宝山成願寺というお寺があります。
地図で示すとだいたい この辺り です。


こちらのお寺には、1636年、最上転封の際に高遠から最上に向かう途中、中野で客死した井深茂右衛門重吉が葬られていました。
井深重吉が葬られた当時の寺名は「正観寺」といい、その後区画整理などがあったのでしょうか、現在墓の所在はわかっていません。

井深重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光を救い出す際や、小牧長久手の戦い等でも活躍した剛の者です。
重吉は勝頼の人質となった正光の供として、甲府におりました。
勝頼が甲府を退去するに当たって、人質を殺してから出て行くという噂を聞き及び、
深夜に正光の居室の床下を破って忍び入り、正光を背負って外に逃れ救い出したそうです。
無事脱出に成功し、正光に「何か忘れ物は無いですか?」と尋ねたところ、「鼻紙袋を忘れたが、そのままにせよ」と言われたそうですが、
それを無視して再び鼻紙袋を取りに戻り、戻ってくる途中、7,8人の見張りに遭遇し、それを撃退して帰ってきたとか・・・。
この後、重吉は正光を無事に、正光の妻の実家である信州上田の真田昌幸の居城に送り届けています。



本堂です。第二次世界大戦の戦災で全焼してしまったので、江戸時代の建物ではありません。

井深重吉が葬られてから232年時代を下った1868年。このお寺には、近藤勇の妻子が隠れていました。
鳥羽伏見戦後、病気療養中の沖田総司も一時期ここで過ごしていたとも伝わっています。
また、近藤勇の遺体を板橋から三鷹市大沢の竜源寺まで密かに運んでくる途中で、ここに立ち寄り休息を取ったと言う話もあります。



鍋島地蔵です。
実はこのお寺、蓮池藩鍋島家の菩提寺にもなっています。
近藤勇の妻子は凄い所に隠れていましたね。
まさに、敵の懐とも言っていいような場所。
だからこそ、逆に簡単には見つからなかったのかもしれません。


蓮池藩鍋島家の墓所。

成願寺の近所には上野戦争や飯能戦争の頃に仁義隊が屯集していた 宝仙寺 もあります。



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