このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

千葉県香取市 樹林寺


保科正直は本能寺の変後に高遠城を奪取してから高遠城主を務めていましたが、
徳川家康の関東移封に従って下総多古(今の千葉県多古町)に移ってきます。
関ヶ原の戦いの後、高遠城主に復帰するまでの約十年間、下総多古の城主を務めていました。
多古町や周辺市町村には今も保科家ゆかりの史跡が点在しています。
今回取り上げる千葉県香取市の樹林寺も保科家が下総多古を領していた時代、保科家の祈願寺でした。

お寺の入り口の看板。



最寄り駅はJR成田線の小見川で、駅からの距離は4.5キロほどになります。
駅からはずっと平坦な道が続いていますが、お寺自体は丘の上にあります。
バスなどの公共交通機関はなく、地図で指し示すと この場所 になります。



本堂です。
廃仏毀釈の煽りを受けたのでしょうか?以前の本堂は焼かれてしまったそうで、明治4年の再建になります。

保科正直はこの樹林寺、そして現在は秘仏になってしまった本尊の夕顔観音を非常に信仰していて、
多古から高遠に移る際には、この夕顔観音を模造させ、さらに観音堂の土を持っていって、高遠に樹林寺という同名の寺を建立しました。
樹林寺は高遠に留め置かれた為、山形、会津へは付き従っておりませんが、文明寺の僧が高遠樹林寺の夕顔観音をさらに模造しており、
それは山形、会津と伝わってきました。
会津の文明寺にはこの像を納める観音堂まで建てられていたようですが、戊辰の戦火で焼失してしまったそうです。



境内には1月にもかかわらず桜が咲いていました。
寒い季節に咲く桜だそうです。



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