このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

狭山不動尊


またまた東京都ではないのですが、埼玉県所沢市にある狭山不動尊に足を運びました。


正式名を狭山山不動寺と言う昭和50年に開基したお寺です。
地図でいうと ここ
西武鉄道狭山線西武球場駅から100メートルくらいの場所です。
駅の反対側にはプロ野球西武ライオンズの本拠地のインボイス西武ドームが建っています。


勅額門です。この門は増上寺台徳院(二代将軍秀忠公)御廟の勅額門を移築したものです。
門には葵の御紋や様々な彫刻が彫ってあります。


門に掲げてある勅額です。
この勅額は紫衣事件で有名な後水尾天皇が書いたものです。


さらに進んでいくと、増上寺台徳院御廟の御成門も移築されています。
『会津藩家世実紀』には、土津公が高遠藩主の頃、高遠藩が台徳院御廟の普請を受け持ったという記録があります。
全てを担当したのか?或いは一部分だったのか?一部分だったとしてどの部分を受け持ったのか?
は、私にはわかりかねるのですが、この勅額門や御成門は高遠藩が作った建物なんでしょうかねぇ?


本堂の周りには立派な灯篭が沢山並んでいます。
実はこれ、全て増上寺から持ってきたものです。
その中で、階段の左横にある灯篭に注目。


よくわかりませんね。もうちょっと近づいて見てみましょうか。

「増上寺」
これは奉納先ですね。


「會津城主」、


左側には「源正容」と書いてあります。
右側は途中からしか映していませんが官職ですね。
会津松平家三代正容公が増上寺に奉納した灯篭です。


本来、対になるべき灯篭がこんな所にありました。
右側の手前から5番目。


右側には「増」の部分が欠けていますが、「増上寺」。
左側には「清揚院」と書いてあります。
清揚院とは三代将軍家光公の三男、甲府藩主松平綱重公の事です。
六代将軍家宣公の実父でもありますね。

さらに続きを見てみると、


「會津城主」、


左側に「源正容」と書いてあります。
要するに会津松平家三代正容公が、従兄弟である松平綱重公の供養の為に増上寺に奉納した灯篭です。

何故、「会津松平家三代正容公が従兄弟である松平綱重公の供養の為に増上寺に奉納した灯篭」が、
こんな所沢の山の中に出鱈目に置かれているのか?
増上寺の徳川家御廟地、台徳院御廟地だった場所が現在何になっているかと言うのがそのヒントになると思います。
増上寺の徳川家御廟地だった場所には東京プリンスホテルが、台徳院御廟地だった場所には東京プリンスパークタワーが現在建っています。
見ているだけでムカついてきます。うちの殿様が従兄弟の為に献納した灯篭を・・・。
おのれ!堤め!

最初の方に灯篭が沢山並んでいる写真を掲載しましたが、
あれらは全て各大名家が、将軍や将軍家ゆかりの人物の供養の為に増上寺に奉納したものです。


第一多宝塔の前にはこんな灯篭がありました。
これは、文字がはっきり読めますね。
平朝臣の「平」の部分が映りきらなかったのですが、
「平朝臣鳥居左京亮 忠恒」と書いてあります。

実は増上寺から失われた灯篭はこれが全てではなく、この所沢を経て散逸してしまったものも少なくありません。
増上寺の石灯篭問題を取上げているHPがあるのですが、
そちらのHPによると本来これと対になるべき鳥居左京亮様が献納した石灯籠が清瀬市の長命寺にあるというので、そちらにも足を伸ばしました。

『増上寺の石灯籠』
是非、御一読ください。
ページの最後にはPDF形式で詳細な調査報告書がアップされています。

詳しい事情を知らないであろうお寺の方には親切な対応をしていただいたので、このような紹介の仕方をするのは心苦しいような気もしますが、

ならぬことはならぬものです。


本堂前の惣門は毛利家の江戸屋敷の門を移築したものでした。
怒り増幅。
なんだか、全てが嘘に見えるお寺でした・・・。

では、清瀬市の長命寺に移動します。


長命寺へ



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