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企画展「将軍家と会津松平家」


2006年10月9日、福島県立博物館と若松天守閣の共同企画展「将軍家と会津松平家」を見てきました。

県立博物館のHPを見ても詳しい内容が記載されていないので、入手したパンフレットをスキャナーで取り込み画像をアップしました。
若松城天守閣会場「激動の幕末」
福島県立博物館会場「葵の絆」

特に注意して見ていただきたいのが、展示期間ですね。
会期中に展示替えがあります。
出品内容と共に、お目当ての展示品がいつ展示されているのか確認してからお出掛けになることをお勧めします。
また、会期中に県立博物館から天守閣に展示場所が移動する物等もありますので、両方のパンフレットを突き合わせて注意深く見てください。

会期中の展示替えには私自身痛い目に合わされたことがあります。
昨年、孝明天皇から容保公へ送られた御宸翰と御製が特別に展示されるというのを聞き、
わざわざそれを見る為だけの目的で会期中に会津を訪れ、15年ぶりに天守閣に登閣したのですが、
会期中に展示替えが行われていて片方だけしか見ることが出来ませんでした。
その時の広告には展示替えの話は一切無し。
目玉として「御宸翰と御製」と書いてあれば当然両方見れると思うじゃないですか!!
せめて、展示替えがあると言う事だけでも書いておいてくれれば、2度訪れて両方見ることも出来たのに・・・。

さて、このパンフレットですが、若松城天守閣では自由に持っていけるように置いてあったものの、県立博物館の方は希望者のみに配布しているという事でした。
ご入用の方は係りの方に問い合わせてみてください。

今回の企画展は個人的には非常に興味深い内容で、感激、感動の連続でした。
鶴ヶ城西口のバス停でバスを降りたのが12:10頃、県立博物館を出たのが16:10頃、メモを取りながらじっくりと見ていたら両方で4時間も掛かってしまいました(笑)。
これからいらっしゃる方にはお時間にゆとりを持ってお出掛けする事をお勧めします。

以下、展示物を見て感じた事などを書き連ねていきたいと思います。
取上げているものは、一般的な重要度、価値とは無関係で、個人的に興味を引いたもの、事柄ですので御容赦ください。



若松城天守閣会場「激動の幕末」

孔雀図 松平容敬筆
署名には「源容和」とありました。
容敬公は容和から容敬に改名しているんですね。
容和時代に描かれたものです。
でも、説明にはそういう事が一切書いてなかったなぁ。

樺太絵巻
よく見てみると「樺太絵巻」に描かれている陣屋の幕の紋が会津葵ではありませんでした(笑)。

孝明天皇宸翰[深秘之御宸翰]
孝明天皇から十四代将軍家茂公へ送られた御宸翰です。
包み紙に「大樹江極密」と書かれている事からも切迫した状況が感じられます。

旅櫛箱(村梨子地葉菊紋散蒔絵)
和宮様が江戸に下る時に道中で使用された化粧道具です。
非常に綺麗に保存されているとは思うものの、私は男なので、化粧の事はよくわかりません(笑)。
鏡を見て眉毛を整えたりするのは、男らしくないなぁと思っているので嫌いです(笑)。

金戒光明寺図
横山主税さんや、田中土佐さんが宿陣した場所がわかるようになっています。

洛中焼失図
禁門の変で焼失した地域が地図に赤く塗られています。

十八軒二方白筋兜 松平喜徳所用
喜徳公の兜です。
喜徳公の経歴について詳しい説明が無かったのが残念。
こちらは天守閣ですが、共同開催の県立博物館のタイトルは「葵の絆」じゃありませんか。
数奇な運命を辿った喜徳公の経歴をもっと詳しく説明した方がいいと思うんですけどね。
水戸家に十五代将軍慶喜の弟として生まれ、会津家に養子に入り、鳥羽伏見後容保公が恭順の意思を表すため、形式上当主となり、
当主となった為に容保公同様に罪に問われ、明治になり容保公に実子が生まれると離縁して会津家を去っていくと言う、苦難を背負うためだけに会津家に来たようなお方です。
特に天守閣は歴史に興味がない方や、興味を持っていてもあまり正確に覚えていない方なども多数訪れるので、この手の説明は必要不可欠なものと思われます。
そういう方の興味を引くような説明の書き方、エピソードの取り上げ方と言うのが重要なのではないでしょうか?
そういう事の積み重ねが、会津の歴史や、会津と言う土地に興味を持って頂く事に繋がると思います。

藍縮緬地菊花模様小袖(松平照所用)
照姫様の小袖です。
展示されたものが使われたのかどうかはわかりませんが、鶴ヶ城籠城戦の際に傷病者に掛ける布団が足りなくなり、
照姫様が所持していた高価な着物類を蔵から持ち出し、傷病者が恐縮する中、惜しげもなく傷病者の布団代わりに掛けて回ったというエピソードを思い出し、
「こういう物を掛けて回ったのか」と、見入ってしまいました。
説明文では、このエピソードにも言及してもらいたかったですね。

萱野権兵衛宛松平容保・照姫書簡
萱野権兵衛さんが切腹する直前に、萱野権兵衛さんに容保公と照姫様から送られた手紙です。
喜徳公の兜、照姫様の小袖、容保公と照姫様から萱野権兵衛さんへの手紙。
これら一点ずつでもぞれぞれ胸に来るものがありますが、三点続けて見たので、当時の情景や容保公、照姫様、喜徳公の心中に思いをはせ涙が出そうになりました。


さてさて、天守閣での展示物を見終え、今まで登った事の無かった櫓の跡に登ってみようと思ったのですが、
立ち入り禁止と書いた札が掛かり、入れないようにロープが張ってありました。
何でも昨日大雨が降った為だとか・・・。
うーん、残念、そんなにもろいものなのか・・・。
雪の中、写真を撮る為に櫓の跡によじ登る人もいるそうですが・・・、
根性ありますね・・・。

鶴ヶ城の天守閣から県立博物館に移動する途中で萱野権兵衛さんと佐川官兵衛さんの顕彰碑にお参りして来ました。
どちらも場所がわからなかったので、観光案内所で場所を尋ねたら、私一人の為にボランティアガイドの方が案内してくれる事になり恐縮してしまいました。
萱野権兵衛さんの碑は本丸にあったんですね。
文学部卒ではない私にとっては文字のかすれた漢文は難解で、碑文の意味どころか、何の碑なのかすら今までわかっていませんでした(恥)。
佐川官兵衛さんの碑はさらにわかり辛く三の丸の道に面した所にありました。
こんな所1回も来た事がないよ!!同じ三の丸でも逆の方向ならともかく・・・。
鶴ヶ城は広いですね。
因みに、今回案内してくださった、ボランティアガイドの方はやけに詳しいなぁと思ったら、会津史談会の方でした。
9月には富津の墓参にもいらっしゃったようで・・・。
とても親切な方で、明らかに遠回りになるので「もうここでいいですよ」と言っているのに、わざわざ県立博物館の受付まで案内してくれました。
僕は数え切れないくらい県立博物館には足を踏み入れてるんですけどね。公衆便所代わりに。
県立博物館の受付の方にも非常に親切に応対していただき、こちらが恐縮してしまうほどでした。
みんながみんなではありませんが、会津の方は親切な方が多いですよね。
上辺だけの営業スマイルではなくて、親身になって対応してくれる誠実さを感じます。
やはり、これは藩風やそれに基づく道徳教育などによって培われたものなのでしょうかね。


福島県立博物館会場「葵の絆」

東照権現像
企画展の入口を入ると、まずこれがあります。
教科書などにもよく載っているものですよね。
今回は家康公に限らず、歴代将軍の肖像画が多数展示してありました。

紅葉山東照宮扁額 「東照大権現」
個人的にはこれを見れたのは感激です。
薩長の連中に取り壊された紅葉山東照宮の扁額が残っていたなんて全く知りませんでした。
しかも、それをこの目で見れるとは
江戸総鎮守の神田明神なんて、薩長の連中に勅額を外されて、それが何処に行ったのか未だにわかってないんですよ。
江戸が大火の時にも守り抜いた勅額を・・・。

東照宮神号 天海筆
会津高田出身の天海僧正が書かれたものです。
実は私、これは見た事があります。
ちょうど1年前の同じ日、2005年の10月9日日光東照宮の博物館で、見ることが出来ました。
その時も感激したのですが、再び見ることが出来るとは。
これは東照宮でもいつも展示しているものではないんですよ。
神仏習合の名残があるものを博物館で展示するのは、東照宮本体の方があまりいい顔しないのだと東照宮の博物館で聞きました。
自分が東照宮の博物館を訪れた時は、たまたま展示替えの直後でこれを目にすることができました。
来年の10月9日にも何処かで目にしたり・・・(笑)。

征夷大将軍の宣旨
家康公が征夷大将軍になった時の宣旨です。
こんなものを目にする事が出来るとは!
大変感激いたしました。

金扇馬印
家康公そして歴代将軍が用いた有名な馬標です。
実物を初めて目にしたのですが、かなり大きいです!!
扇の軸が1メートル70センチ以上あるように感じられます。
立木観音を見た時にも思ったのですが、聞くのと見るのじゃ大違いとはまさにこの事。
かなり迫力があります。
説明書きに「長州征伐云々」と書いてあったので、もしや徳川慶喜が大坂から逃げ帰る時に大坂城に置き去りにした現物がこれか?と思い、 近くにいた博物館の方に尋ねてみたら、同じものが10個位あったそうで、その時の物かどうかはわからないとの事でした。
つまり、この馬標自体は間違いなく本物なのですが、長州征伐に持っていった現物かどうかもわからないとの事でした(笑)。

ちょっと話が脱線しますが、この後、この方にちょくちょく質問していたら、「どちらからおいでですか?」と尋ねられ妙な方向に話が盛り上がってしまいました。
「東京です」
「東京のどちらですか?」
「日野市です」
「多摩センターに住んでいたんですよ、あの辺良くわかりますよ。」
「大学か何かで?」
「そうです、あの辺の大学に通っていました。」
「○○大学ですか?」
「そうです。」
どうやら私の後輩のようです(笑)。
「いやぁ、僕も○○大学に通っていたんですよ。」
「よく高幡不動とかで飲んでましたよ。」
「そうね、山を降りないと何も無いからね(大学が山の上にあるのです)、
この辺より田舎だからね、この辺「山火事注意」とかの看板立っていないでしょ?(大学の構内に 「山火事注意 歩行中禁煙」と書かれた看板 が沢山立っているのです)」
よく院内御廟とか、どこそこに登るのが大変とか言うのを見掛けますが、標高差百数十メートル、3キロ弱の坂道を毎日歩いて通っていた私にとっては屁でもありません(笑)。
「ありましたね。山火事注意の看板(笑)」
「出身が会津?」
「いえ、出身は北海道で」
「御先祖が会津から移住されたとか?北海道には会津藩士が移住した場所が沢山ありますよね。」
「いや、自分が住んでいたのは伊達領の方で釧路とかあっちの方で・・・。」
「伊達領?釧路ですか?あの辺で古くから開けていたのは厚岸とかですよね。択捉島の方まで管轄して・・・。」
「そうです、蝦夷三官寺!良くご存知ですね。」
「いや、僕は東京なんですけど、母が北海道の出身で、母の母の母の母、4代前の先祖が会津の下級武士の娘で、 戊辰戦争に負けた後に、北海道に移住したんですよ。おそらく斗南を経て(とは言っても、冷静に考えて厚岸には何も関係が無い(笑)。私は小さい頃から旅行が好きで20歳の時には既に全ての都道府県を訪れていたのです。厚岸は24歳の時に訪れました。)。 えっ?厚岸なんですか?」
「そうです厚岸です。」
「厚岸、いい所ですよね。行ったことがありますよ。」以下略
世間は狭いものですね(笑)。

保科正之像
保科正之像を始め、歴代の藩侯の肖像画がありました。
像に描かれている紋は、二代正経公までが九曜で、三代正容公からは葵でした。
正容公の像は松平姓と葵紋を下賜された後に描かれたものですね。
正之公から七代目の容衆公までは似ているのですが、八代目の容敬公から雰囲気が変わるのが面白いです。
先入観があるからそのように見えるのでしょうか?

家訓
家訓です。
複写などの注が付いていないと言う事は、土津公が家老達に配ったと言われる家訓の現物ですかね?
それにしては保存状態が良好すぎるような気もしますが。
もしそうであったとしたら感激です。

能面 平太
これをずっと見たかったんですよ!!
これを含めて土津神社で所蔵されているお宝を。
この能面は土津神社のパンフレットや絵葉書(非売品)にも載っています。
説明書きに書いてなかったような気がするので書きますけど、これは徳川将軍家から拝領したお面なのです。
と、土津神社で頂いた勿体無くて使えない絵葉書(笑)には書いてあります。
うろ覚えだけど、説明に書いてなかった気がするなぁ。
もし、拝領した事が事実で、説明書きに書いていないとするのならば、重大なミスです。
今回の企画展のテーマは「葵の絆 徳川将軍家と会津松平家」ですよね?
でも、本当に書いてなかったかなぁ。
これから見に行かれる方は、出来れば情報をください。
書いてあったのなら冤罪になってしまうので削除します。
もう1回行って確かめたい(笑)。
ここでこのお面を見れるとは思わなかったので、これを見た時には本当に感激しました。
さっきから感激ばっかりしてますけど(笑)。
○○所蔵と書いてある品物も、そこへ行けば見られるとは限りませんからね。
完全に非公開のものや通常展示していないものなども多数あります。
土津神社の所蔵品などはその最たるもの。
何せ、見せる見せない以前に、普段はあそこには人がいませんからね。
この企画展には今回を逃したらもう一生見ることが出来ないようなものも多数出品されているように感じられます。

しづ祈願文
土津公のお母上であるお志津の方様が土津公を懐妊中に無事出産できるように氷川神社に祈願した祈願文です。
これもずっと見たいと思っていたんですよ!!まさか、ここで見れるとは!!
何度も同じような事を書いてしまっていますが、いや、もうね、ここで挙げられているほとんどのものが、一つでも見れると聞いただけでも、私は会津に飛んで行きますよ。
それが、全く予期せぬ形で次から次に目の前に現れて来るので、もうパニック状態です(笑)。
この祈願文に関しては前々から疑問に思っていることが2点あります。
まず第一に何処の氷川神社に預けた祈願文なのか?
大宮の氷川神社は古くは、中氷川神社、氷川女体神社の三社で一社の神社の体を成していました。
お志津の方様が匿われていた大牧の地から最も近いのは氷川女体神社です。
また第二に現在の大宮の氷川神社に祈願したものだとして、何故一番近い氷川女体神社ではなく、一番遠い大宮の氷川神社に祈願したのか?
うーん、謎です。

聖光院像
土津神社所蔵のものです。
聖光院は媛姫毒殺事件など保科家に災厄をもたらした土津公の継室です。
このような人物の肖像画もきちんと取ってあるんですねぇ。驚きです。

輔養編
土津神社所蔵のものです。
現物は初めて見ました。

土津神社絵図
焼失前の土津神社も現在とあまり変わりませんね。
女橋という表記が見られます。
女性の参拝経路は今とは違ったのですかね?

土津神社神領図
今も残る土町、中町などの表記も見受けられます。
しかし、それから考えると大分縮尺がずれているような気が?

花押型、印章
容保公などの花押型や印章が置いてありました。
花押は判子で押していたのか・・・。
恥ずかしながら存じませんでした・・・。

プレモカメラ
徳川慶喜のカメラです。
徳川慶喜が写真好きと言う事は知っていましたが、実際に使用していたカメラは初めて見ました。

会津磐梯山噴火之由来
明治21年、磐梯山噴火の折、容保公が供勢を引き連れて被害者を見舞い義捐金200円を寄附したと言う事が書かれていました。
明治になってからもこのような事をなさっていたのですね、このエピソードは全く知りませんでした。

御意之振
将軍謁見の際の台本です。
セリフや所作などが書いてあります。

松平容保筆 宸翰添書 錦袋
孝明天皇宸翰 松平容保宛
孝明天皇御製
まさか、今回ここでこれを見れるとは!!
全く告知していなかったので、非常に驚くと同時に大変感激いたしました。
前回は片方しか見れなかったのに、今回は両方同時に見れた上に、容保公直筆の宸翰添書まで見る事が出来ました。

松平容保書状 会津藩家老宛
これはしばらく前に福島県知事が古本屋から購入したとしてニュースになったものですかね。
文久4年2月18日の日付が入っています。
藩士は勿論、農民や商人にまで配慮するよう言及なされていて、容保公の決意とともに人柄も偲ばれます。

徳川慶喜上書(総督府進軍宥免願いにつき)
江戸城を脱し寛永寺で謹慎中の徳川慶喜が、赦免を願い出たものですね。

会津藩士嘆願書
会津藩士の書いた嘆願書もありました。

松平容保筆「東照宮」
これも、ちょうど1年前の同じ日、2005年の10月9日日光東照宮の博物館で見ました。
再び見る事が出来てうれしいです。
ただ、これも天海筆「東照宮神号 」と同様、いつ行っても東照宮の博物館に展示されているというものではありません。
たまたま、直前に展示替えを行ったそうで、偶然にも見る事が出来ました。
東照宮の博物館の方に他にも会津関係の何かが残っていないか尋ねた所、西郷頼母さんの書いたものは多数残っているそうです。
業務日誌として(笑)。


今回の企画展は予想をはるかに超える充実度で大変驚きました。
不満のように見える部分は、「こうした方がより良く見えるのじゃないか?」と個人的に思うことで、
全体としては非常に充実した、非常に満足度の高い素晴らしい企画展であったと感じています。
この企画展を発案、そして実現させてくださった担当者の皆様に心から感謝したいです。

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