このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

高遠


東京から高遠に至る道は二つあります。
一つは茅野からの杖突街道、もう一つはJR伊那市駅方面からの権兵衛街道。
杖突街道は参勤交代に使われた道で途中には御堂垣外宿の跡もあります。
一方、権兵衛街道は1585年、保科家の主力が上田攻めに出払っている隙を突いて小笠原勢が高遠に来襲した際に、小笠原軍が使用した道です。
現在、茅野〜高遠間のバスは、桜のシーズンのみの季節運行となっていますので、
今回はJR伊那市駅から権兵衛街道を通るバスに乗って高遠を訪れました。

バス停の名に惹かれて終点高遠駅の一つ手前でバスを降りました。

その名も鉾持参道です。


バス停の名前は鉾持「参道」になっていますが、鉾持桟道は1585年に高遠に攻め寄せてきた小笠原勢を撃退した場所です。
1585年12月、徳川家に反旗を翻した真田家を攻めるため、保科正直、正光父子は保科家の主力を率い上田に出陣しました。
その間隙を突いて松本の領主小笠原貞慶は上杉の援兵2千を含む総勢5千人の軍勢を率い高遠に攻め寄せてきました。
高遠に残るのは正直の父で70歳になる保科正俊と手勢百人ばかり。
急遽召集した農兵を合わせても数百にしかなりません。
一旦城を捨てて引くべきという意見が議論の大勢を占める中、そこは老いたりと言えども槍弾正の名をはせた保科正俊。
自ら指揮をとり、鉾持桟道で敵を迎え撃つ作戦を立案しました。
鉾持桟道は断崖の中腹にある小道。
道の上も下も高い崖になっており、崖下には三峰川が流れています。
小笠原軍の先鋒隊千人のうち半ばが桟道を通り過ぎたところで、桟道の上に配置された北原玄蕃率いる部隊が、桟道にいる小笠原軍をめがけて大木や巨岩を落としました。
狭い桟道にいる小笠原軍は逃げ場もなく、圧死、または崖下に転落死して一瞬のうちに百名以上の兵を失いました。
道を塞がれ、隊も分断され、後続部隊は進む事もできず、既に通り抜けた部隊は引くこともできず。
そこで、桟道を既に通り抜けた小笠原軍の前衛に赤羽又兵衛、田口五郎兵衛などの部隊が襲い掛かります。
士気落ち逃げ道をふさがれた小笠原軍の前衛はほぼ全滅。
同時に、後続部隊や本隊にも別働隊が山上から鉄砲の一斉射撃を行い、小笠原軍は退却せざるを得なくなりました。

バス停はちょうど、鉾持桟道と高遠の市街地の境目に位置し、バス停の後ろには鉾持桟道が続いています。

今、バスで通ってきた道ですが、少し歩いて引き返してみます。

今は崖を切り開いて二車線分の道路がありますが、当時はこれよりもはるかに狭い道でしょうし、
この崖の上から大木や巨岩を落とされたらひとたまりもありませんね。

反対側から見てみます。奥が高遠の市街地になります。
右手に見える歩道は地面の上にはありません。道路に横付けされたような形になっています。

写真ではわかりにくいですが、川面ははるか下方。川面まで断崖絶壁が続いています。
落ちたら確実に死にます。

高遠を訪れた際には、車で通り過ぎるだけではなく、是非御自分の足で鉾持桟道を歩いてみる事をお勧めします。
日本には各地に古城、古戦場は数多くありませんが、現地に立っただけで当時の情景がこれだけ思い描ける場所はそうないでしょう。
因みに、鉾持桟道の戦いの概略を示す案内板や、古戦場を示す看板などは一切ありません。
JRバス高遠駅の観光案内所に置いてある地図パンフレット類にも鉾持桟道の戦いに言及しているものは見受けられませんでした。

現地の地図 です。
国道361号線のマークが書いてあるあたりが鉾持桟道になります。地図で見ても僅かな間隔に等高線がひしめいています。
鉾持桟道の東側、道が二股に分かれるあたりが高遠の市街地の入口、鉾持参道のバス停になります。

航空写真 も見てみましょう。
上空からの写真ですと高低差はわかりにくいですが、写真上方の三峰川の上に見える道路が鉾持桟道で、
三峰川の対岸には川面と高低差の少ない平地が広がっています。

高遠の町は面白い地形をしていて三峰川南岸の広い平地部ではなく、三峰川北岸の高台に町の中心があります。
西側から道なりに来ると、三峰川の南岸には広い平地が広がっているにも拘らず、
坂を上り高度を上げ断崖を切り開いた狭い鉾持桟道を通り抜けねばなりません。
また、町の中心部と高遠城も藤沢川の深い谷に隔てられ、それぞれが独立した丘の上にあります。
何故、広い平地が広がっている三峰川の南岸に街の中心を持ってこなかったのか、
何故、町の中心の位置を現在と同じ位置にするとしても往来が容易な三峰川南岸を経由する道をメインルートに据えなかったのか。
これらの町や道の位置は防衛戦略を考えて配置されたものでしょうか。
誰がいつ、このような配置を決めていったのか非常に興味があります。

また、小笠原軍の取った行動にも疑問を感じずにはいられません。
三峰川の南岸に開けた土地があるにも拘らず、何故馬鹿正直に街道を進軍してきたのか。
鎌倉の切通等もそうですが、このような場所は絶好の迎撃ポイントです。
同じ信濃の大名であるにも関わらず、現地の地形の調査が不十分だったのでしょうか?


鉾持参道のバス停付近まで戻り高遠の市街地に向かって歩いてみます。
ここから分かれる小道が旧街道です。

道は舗装され、現代になってから建てられた建物のも多いですが、道の形状が旧街道の趣を残しています。

旧街道にある城下町の水場です。現在でも使用されています。
水は山の上の方から引いてきているそうです。


町の中心部にあるお菓子屋さんです。店名に惹かれて入ってみました。

鉾持桟道の戦いで活躍した赤羽又兵衛とは何か関係があるのでしょうか?

高遠まんじゅうです。一個95円也。
今の時期は観光客も少ない事から1日1回、午前中にだけしか作らないそうです。
午前10時過ぎにお店に足を運んだので、ちょうど出来たてのお饅頭を食べる事が出来ました。
とても美味しかったです。
高遠まんじゅうは500年の歴史があるのだとか。
土津公や保科家家中の諸士も口にしたのでしょうか?
高遠の街には高遠まんじゅうを売るお店がいくつかあるので、食べ比べてみるのも面白いかもしれません。
帰ってきてから知りましたが、「饅頭の天ぷら」も伊那地方から会津にもたらされたものらしいですよ。
次回訪れた時には探してみたいと思います。


自分は大根が嫌いなので普通の蕎麦を食べましたが、高遠蕎麦を出すお店もありました。


歴代領主、領民の崇敬を集めた鉾持神社です。
毎年2月11日には「だるま市」が開催されるそうです。
例祭は会津まつりと同じ9月23日。
会津まつりを訪れる高遠からの来賓の方は、自分の町でもお祭りがあるにも拘らず来てくれていたのですね。

長い石段を登っていくと、鬱蒼とした森の中に拝殿があります。
鳥居から拝殿までは200メートル強石段が続いています。


大宝山建福寺です。
会津の建福寺と全く同じ名前ですね。
会津の建福寺は土津公と共に、高遠→最上→会津と移りましたが、高遠にも変わらず現存しています。

本堂です。
携帯カメラでは捉える事が出来ませんが、本堂の上の方には、保科家の家紋、九曜の紋が輝いていました。

本堂の左手奥には、保科正光公、正直公、武田勝頼の母である諏訪御料人(由布姫、湖衣姫ともいう)のお墓があります。
向かって左から、正光公、正直公、湖衣姫のお墓です。


満光寺です。
若松の願成就寺と関係が深いそうですが、願成就寺は若松の何処にあるのだろう?

立派な山門です。

非常にわかり辛いですが墓域の最深部に保科左源太の墓があります。
土津公が保科家に養子入りする以前、保科家の後継者候補だった人物ですね。


蓮華寺です。
このお寺は以前の名前を長遠寺といい、土津公の母君である浄光院様のお墓がありました。
山形→会津の浄光寺の前身ともうべきお寺です。
山形、会津の浄光寺の開祖は移封前の長遠寺の住職になります。
現在は絵島事件で有名な絵島の墓があります。


高遠城です。
高遠の市街地から徒歩で高遠城に登ると、途中の階段から高遠の街や鉾持桟道を一望する事が出来ます。
城内には深い堀などが残り、仁科盛信が城将を務めた当時の激戦の情景が浮かんできます。
樹林寺、桂泉院、諏訪社など、まだまだ見たい所はあったのですが、
途中、図書館に3時間ほど立ち寄ったので、陽も傾き、本日はここで時間切れとなりました。




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