このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

鉄山宗鈍


鉄山宗鈍は平林寺中興の祖です。
1532年甲斐国上条に生まれ、俗姓を石坂氏と言い、後に武田の一字を拝領し窪田と改めたといいます。

甲斐国の恵林寺で僧童となり、後に平林寺の他、駿河の臨済寺、信州高遠の建福寺の住職を務めています。
駿河の臨済寺は徳川家康公が幼少の頃に学んだ寺、信州高遠の建福寺は保科家の菩提寺で、
土津公と共に最上、会津と移転した、あの建福寺ですね。

ちょうど、この鉄山和尚が臨済寺の住職をしていた時期に、江尻城主として駿河を治めていたのが穴山梅雪です。
見性院様は穴山梅雪の妻。
記録によると鉄山和尚と穴山梅雪は少なからず親交があった模様です。
保科家菩提寺の高遠の建福寺の住職だった事、穴山梅雪、見性院様との関係。
土津公の保科家養子入りにも一枚噛んでいたのかなぁなんて思ったり(笑)。

鉄山和尚が高遠の建福寺の住職を務めていた時期は、1571年〜1576年頃と推定されます。
この後は、鉄山和尚の師や弟子が建福寺の住職を務めていたようです。
つまり、鉄山和尚が建福寺の住職を務めていたのは武田家滅亡前ですが、その後もコネクションはあったと言う事ですね。

因みにこの方、1617年に86歳でお亡くなりになられています。
見性院様が亡くなられたのは1622年。
と言う事で、この方、見性院様と非常に関係が深いですが、見性院様の供養墓を建てたのはこの方ではありません。



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