このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
日中線 熱塩駅
7:02 16:51 19:17.
日中線廃止間際の熱塩駅の発車時刻である。
一日たった3本の超閑散路線。
『
日中
走らないのに
日中線
』
そう呼ばれていた。
本来、日中線は栃木県今市市(現・日光市)から会津若松を経て、
山形県米沢市へいたる野岩羽線計画の一部であった。
1938年に喜多方〜熱塩間が開通。
日中集落(現在の日中ダム付近)辺りまで路盤工事が進んでいたが、
戦時中に工事が中断、終戦後、社会基盤が安定してくると
今度はモーターリゼーションの大波にもまれ日中線の存在意義が薄れてきてしまった。
昭和59年、東北一の赤字路線となっていた日中線はついに廃止される。
レールの撤去作業は復活の僅かな可能性を信じる地元の反対に合い,なかなか進められなかったそうだ。
しかし、国鉄の決断は揺るがず、また第3セクター方式の運営も見込めなかった為、
沿線住む作業員達が涙をこぼしながらレールを一本一本外していく事になった。
日中線は前述のとおり、
昼の時間帯にダイヤが無いため沿線の学生達はバスを利用して下校していたそうだ。
ローカル線にとって学生は大事な定期客のはずである。
その事を考慮しない当時の国鉄の不合理さが日中線廃止の一つの要因である気がする。
ちなみに野岩羽線の予定線の一部であった今市〜会津若松間は
東武鬼怒川線・野岩鉄道・会津鉄道の三線直通によって開通している。
東武特急『きぬ』と会津鉄道快速『AIZUマウントエクスプレス』が接続されており、
関東から会津へのアクセス路線として活躍している。
熱塩駅入口。
現役時の面影が良く残されている。
待合室。
石炭ストーブ良い感じ。
突き刺すような寒さの北国の冬。
本数が少なく列車を乗り過ごす事が出来ない
利用客は発車の十数分前にはここで待っていたのだろう。
駅舎の一角は記念館となっており、様々な日中線の資料が展示されている。
巨木の横に寄り添う駅名版。
左下の空白には何と言う駅名が入る予定だったのだろうか?
もし、戦争前に米沢まで開通していたら日中線の運命も変わったかもしれない。
ホームより喜多方側を望む。
かつての構内にゲートボール場が。
ある意味ここが過疎地域である事の象徴とも言えなくも無い。
ちなみに、画像奥には踏み切り跡も残っている。
構内より駅舎を望む
駅舎完成当時は欧風のデザインをしたモダンな駅舎として親しまれていた。
しかし、末期は補修予算もなく、現役の駅でありながら廃屋の如きの荒れ模様であったそうだ。
それと比べれば、廃止となった今の方がまだ手入れをされているような気がする。
上記画像にも出ているが何気に車止めが現存している。
キ100ラッセル車とオハフ型客車。
これは廃止にあたり、国鉄から記念車両として寄贈されたらしい。
駅から北側へ向かう路盤跡に公民館が。
わざわざ駅舎を望むように建てられているあたり、
住民の日中線への愛着の表れ、とも言えなくも無い。
公民館裏手の路盤跡。
眼前に福島・山形県境の山々が迫る。
あの険しい山々が日中線の線路と未来を阻む事になった。
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