このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
鹿島鉄道 最後の日
鹿島鉄道は1924年に「石岡〜常陸小川」を開通させた鹿島参宮鉄道が前身である
当初、会社名にもあるように鹿島神宮を目指して建設されたのだが早い時期にこれは断念したらしい。
その後1965年に常総筑波鉄道と合併し関東鉄道鉾田線となるが、
1979年には『お荷物路線』として関東鉄道から切り離され「鹿島鉄道」となった。
この時、一緒に「土浦〜岩瀬」を結ぶ筑波鉄道も分社化しているが1987年に廃止されている。
なすすべも無く廃止に追い込まれた筑波鉄道とは違い、鹿島鉄道にはまだ望みがあった。
鹿島鉄道沿線には航空自衛隊「百里基地」があり、その燃料輸送による安定した利益があったからだ。
厳しい経営ながらも親会社である関東鉄道からの支援と燃料輸送で何とか持ちこたえていたのである
が、悲劇は21世紀最初の年に訪れた。
2001年8月、航空自衛隊への燃料輸送が打ち切られたのである。
榎本駅から百里基地まで引かれていたパイプラインの老朽化を契機に
燃料輸送をトラック輸送に切り替えられてしまったのだ。
大口の得意先を無くし、窮地に立たされた鹿島鉄道に更なる危機が押し寄せる。
2005年つくばエキスプレス開業。
これにより関東鉄道のメイン路線である常総線と高速バスの客が
つくばEXPに流れ、売り上げが激減してしまった。
もはや自社で手一杯となり子会社の面倒など見てられなくなってしまったのである。
親会社、更には自治体にも見捨てられ鹿島鉄道はどうにもならない状況に陥る。
そして、ついに2006年3月に廃止届を国土交通省に提出。
廃止届けから一年後。
2007年3月31日
この日を持って鹿島鉄道鉾田線の83年間の歴史が閉じる事となった。
22時29分、多くの会社関係者・地元民・マニアに見送られ最終列車が石岡駅を離れていった・・・。
鹿島鉄道の終着駅『鉾田駅』。
普段、恐らく閑散としているであろうこの古びた駅舎。
が、この日は鹿島鉄道を偲ぼうとやって来た「鉄ちゃん」達でごった返していた。
当然、自分もその一人。
駅舎は「関東の駅百選」に選ばれている。
駅舎の後では地元の春祭り。
やはり多くの人が集まる『この日』に合わせたのだろうか?
神輿の後の閉店した『7・11』がこの場所の現状を物語っていて寂しい気持ちになる。
いま、この街の中心はここから1km離れた鹿島臨海鉄道「新鉾田駅」の方に移っているそうだ。
新鉾田駅と鉾田駅を結ぶものは全く無く、利用者にとっては不便な事この上ないだろう。
もうちょっと何とかならなかったものだろうか?
時刻表。
ほぼ1時間に一本、通勤通学の時間にはもう一本増やすといったダイヤだ。
かつて広い構内であった面影を残す。
それだけに唯一の残った一線が寂しく感じる
駅名版とレールの末端区間。
車内に自転車を乗せられるサービスを行なっていたらしい。
この他にも色々営業努力をしていたのだろうが・・・。
沿線の中・高校生達はかなり活発に鹿島鉄道存続運動を繰り広げていたらしい。
各校の生徒達が「かしてつ応援団」として集まり、署名運動や募金活動を繰り広げたそうだ。
恐らく応援団に集まった生徒達は「かしてつ」を通してであったのだろう。
同じ時間・同じ列車に出会う仲間達。
そんな出会いを作ってくれた「かしてつ」に彼らは並々ならぬ愛着を持っていたのかもしれない。
しかし、現実は常に残酷。
世の中には強い思いを持ってしても、どうにもならない事がある。
が、それでも人は前へ歩き続けなければならない。
悲しみは強さへ。
彼らはそれを学んだはずだ。
キハ602+キハ714が入線。
キハ602は戦前の昭和12年製。
2007年当時の現役最長老の車両であった。
キハ714は北海道は旧・夕張鉄道で使用されていた車両。
北の国よりやってきて、ここ鹿島鉄道で2度目の廃線を迎える。
レア車両同士の編成ゆえか駅構内は大変な事に。
しかし混乱するホームの中、駅員さんが体の不自由な一般客を
出来うるだけ安全に車両へ誘導できるよう気配りしていたのに感動。
彼ら「ぽっぽ屋」は最後の日も通常職務を全うしていた。
レールの合間に咲く一輪の蒲公英(たんぽぽ)
消え行く者への手向けか。
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