このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

平将門の首塚


西暦939年、京の都より遠く離れた東国にて平将門が乱を起こし瞬く間に関東八州を制圧してしまった。
将門は自らを『新皇』と名乗り権勢を振るうが、
朝廷から命をうけた藤原秀郷・平貞盛軍との戦闘の最中に戦死。
その首は京都七条川原にて晒されたが、伝説によると将門の首が体を求めて飛び去り、江戸の地に落ちたと言う。
その後も、将門の呪いによって様々な禍が頻繁に惹き起こされたが、
真教上人と言う僧侶によって石塔婆が造られ日輪寺に供養された後、
神田明神にて霊を合わせ祀った所ようやく災いは鎮まり、やがて将門は江戸の守護神になったと言う。

歴史上、平将門は武士の台頭を先駆けた人物とされている。
個人的には武士は武士でも坂東武者の基礎を作った人っていうイメージがある。
この東の果ての未開野の地で澱みきった貴族文化から離れ、
新たな時代を作り出そうと言う機運が高まりつつあったのではないか?

将門の乱から約150年後、
関東より更に京から離れた東北の地で藤原清衡により、ついに武士による政権が現れる。
そして更に100年後、源頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府が成立。
関東が日本史の表舞台に躍り出るのである。

一旦、足利幕府により政治が京に復帰するが、再び徳川家康によって関東が政治の中心地となる。
そして、一番最初にこの関東の地で天下を握ろうとした男・平将門を祀る神田明神を江戸城の鬼門に据え、
徳川幕府の安定と江戸の町の発展を祈願した。
そして、多くの人が知るように徳川幕府は200年の太平の世を創り出す。

徳川幕府滅亡後も江戸の町は東京と名を変え、そのまま明治も政治の中心地して栄え
皮肉にも逆賊である『新皇・将門』が守護神である江戸城に皇居が据えられる事になった。

このビルの谷間の石塔婆の陰で将門は大笑いしているかもしれない

まさにビルの谷間。
都会の喧騒の中、隠れるようにしてそれはある。


この一画だけ別世界のような空気が流れている。
その独特の空気を吸いに、近所のオフィスに勤めているサラリーマンが気分転換に訪れたりしている。


真新しい石碑の後ろに、古くから残されている石塔婆が鎮座している。
ここに本当に将門の首が埋まっているかどうかは定かではないが、
少なくとも、過去の人々から延々続いている『関東の英雄』への思いがここに集約されているのだと思う。


かつてこの場所には大蔵省があったのだが、
12代目大蔵大臣阪谷芳郎がこの古跡を残すように命じたそうだ。
終戦後、GHQが大手町の区画整理をしようとしてこの首塚を取り壊そうとした。(てか、歴史を軽視するアメリカらしい考えだな)
が、トラブルが度重なり、「将門の祟り」として人々に恐れられ誰も作業しなくなった。
結局取り壊しは中止となり、この地に残る事になったと言うことだそうな。


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