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485系電車
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▲新幹線博多開業前まで山陽路で頑張っていた特急列車から、終焉間近の「はと」を。 1975年3月、当時は大学1年の春休みで、2月に期末試験が済んだ後、 3月になって消えゆく特急の見納め、撮り収めに東京から「高千穂・桜島」で下関に参りました。 早朝の下関は雨でしたが、夜明け前に「月光」「はと」「しおじ」と撮っていったのを思い出します。 思い返せば、こうやって下関の運転所からあがってくる線に485系が定期的に見られたのは、75年3月以降無かったのではないでしょうか。 クハ415-1901さま 2006年2月26日ご投稿 |
▲今度も75年3月の改正直前に撮った見苦しい写真ですが、大阪〜宮崎間の特急「日向」です。 かつては「なは・日向」としてキハ82系で走っていましたが、 先に「なは」が電車化され、74年の宮崎電化で「日向」が漸く電車化されたのですね。 しかし、75年3月の改正で列車自身が廃止されてしまいました。 なはが今日まで寝台特急として生きていることを思うと随分ちがった車生です。 小倉での100番台の日向ですが、ちょうど小倉で上下が顔を合わせるダイヤ設定でした。 クハ415-1901さま 2006年2月28日ご投稿 |
▲上り日向の出発後、下りが日豊本線のホームに入っている写真が残っており、 同時とは言えないまでもかなり近い時間帯で顔を合わせていたと思います。 私も先の写真の先頭側の200番台クハの写真がありますので、載せます。 クハ415-1901さま 2006年3月1日ご投稿 |
▲75年3月の九州入りは、撮影旅行としてはその前の年の大学1年の秋休みに続いて2度目のものでしたが、 3月いうこともあって天候はいまいちでした。 しかし当時は、書かれているように、「月光」「しおじ」「はと」「あさかぜ」「彗星」、 さらに関門のヌシのEF30、配置されまもなかったEF81300しかもステンレス地肌が美しかった301,302、 九州側では小倉駅でのゴールデンタイム、さらにED72,ED731000, 全機6両の少数部隊で北陸から流れてきたED74,ED75の落とし子300番台 そして主役になりつつあったED76と交流電機も多種多様でした。 豪華絢爛を誇った昼行の特急群があと数日で消えてゆくという、 大きな変化を前に、この時期を逃してはいけないと思い、下関に早朝から入れるパターンを考え 、東京から「高千穂・桜島」で下ったのでした。 あれ以来、一本の列車で昼に東海道・山陽在来線を下関まで行くことは不可能となりましたが 、19歳の頃の良い思い出となりました。今回の写真は74年10月2日に新大阪で写した485系「みどり」です。 クハ415-1901さま 2006年3月2日ご投稿 |
▲私は、富山在住の人間ですから北陸本線が 主体になります。 昭和50年代は、自分にとっては最高の場だったと思ってます。 1日中 駅にいても飽きるヒマも無いくらい列車の往来がありましたし、活気がありました。 画像は、昭和52年頃 富山駅 旧4,5番線 ピンボケですいません。 急行のりくらさま 2006年3月2日ご投稿 |
▲1973.4 なは 加古川にて *貫通式の方が少なかった頃の画像です。 ゴンパパさま 2006年3月24日ご投稿 |
▲もう写せなくなった車両を振り返って語り合える! 私自身本当に楽しませて頂いてますのでこれからもどうぞ宜しく。 画像は485雷鳥1973.9 大阪にて。 ゴンパパさま 2006年3月29日ご投稿 |
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