このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
逢坂山トンネル
逢坂山トンネルは、大津と山科の間にあるトンネルの名前です。山科は京都市ですから、下りの場合、トンネルを越えると出ると京都府京都市に入ったと思っておられる方が多いと思います。
ところが、実際には逢坂山トンネル出口(山科側)も滋賀県大津市なのです。(大津市藤尾奥町、〒520-0067)
従って、逢坂山トンネルは府県境でなく、単に滋賀県内のトンネルとなるわけです。
ところで、この逢坂山トンネル、なかなか歴史に満ちたトンネルです。
大津へ鉄道が延びた当時は現在の位置でなく、大正10年に線路が付け替えられた話は有名ですのでここでは省略し、現在のトンネルについて見ていきます。
現在の上り線、入口(山科側)は穴2つ、出口(大津側)は1つです。入口2つで出口が1つというのは山岳トンネルとしては全国的にも珍しいのではないでしょうか?といっても、すぐ隣にある、湖西線長等山トンネルは入口3つで出口1つですが。
実際、先頭車で前面展望していると、入ったときには単線なのに、出口近くには大津第一閉塞信号が内外並んで見えるのがわかります。
一方、下り側は内外とも煉瓦作りの重厚なトンネルポータルになっています。修理はされているものの、基本的に大正10年の開通当時そのままのようです。
今ある3.5本のトンネルは以下のような変遷と推測されます。
大津 山科
大正10年8月
新逢坂山トンネル開通
昭和に入って、列車本数が増えてくると、京都−膳所の線路容量が不足してきました。列車速度が遅いため、運転本数が増やせないためです。そこで上り線を2線とし、線路容量を増やすこととなりました。昭和14年に測量を開始し、昭和16年11月に新トンネルの着工の運びとなりました。戦局が悪化し、船舶の不足から海運によっていた国内輸送が鉄道に集中することになり、また朝鮮半島・大陸向け物資の輸送など、東海道線はまさに物流の大動脈となり、軍部の要求もあり、工事は突貫で進められました。(同時に関ヶ原も迂回線が作られています。
こちらからどうぞ
)
昭和19年12月上り線増設工事完了
(線路容量が増えた他、列車間隔を広げてトンネル内の煙を逃がすことが可能になった。旧トンネルは低速列車用とし列車間隔を15分とした)
戦後沼津、浜松、名古屋、米原と延びてきた東海道線の電化工事は、最後の区間になった米原−京都間が完成し、東京−大阪(電車としては明石まで)が電気列車で運転されることになりました。SL牽引列車はすべてEL牽引に置き換えられ、速度の向上と乗客サービス(煤煙なし)を計ることができました。電気列車では勾配登坂に余裕があるので、複線として1線は休止となりました。
昭和31年10月
電化工事完成し、1本は休止へ
(工事中は掘り下げなど移設があったのでは...)
東京オリンピック後の経済停滞から立ち直った日本は、今度は「万国博覧会」という花火でまたまた好景気で走り出しました。通勤圏の拡大で滋賀県内から京阪神への通勤客が増えたほか、北陸方面も特急・急行列車の増加などで線路容量の不足が懸念され、草津−京都間を複々線化することになりました。
昭和44年7月
複々線化完成
旧上り線は下り内線に転用
新上り線は休止線と新設トンネルの組み合わせ
大津側上り線が変則になったのは、出口を確保する適当な場所が確保できなかったため、とのこと。なお、複々線化にあたっては、当時建設中だった湖西線の絡みも当然あったと思われるのですが、大阪工事局40年史には湖西線の建設にかかわる記載がありません。
(湖西線は鉄道建設公団の手によりますから)
従って、山科側でいろいろな線路移設があったと思われるのですが、概要はつかめません。
戦争という暗い影もあって実現した逢坂山トンネルの線増工事ですが、その功績は現在の琵琶湖線の通勤輸送を支える立て役者になったのですね。
なお、逢坂山トンネルについては、逢坂山さんの
「逢坂峠を越えるトンネル」
にも詳しく書かれております。是非ご一読ください。
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